いろ

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8/13/2023, 10:35:38 PM

【心の健康】

 ひとつ、ふたつ、みっつ。それ以上は数えるのも煩わしい。いったい僕は一日に、いくつの嘘をついているのだろう。わざわざ考えるのも面倒なくらい、僕の人生は虚飾に塗れている。
 嫌いな相手にも愛想良く、隙を見せないように余裕ぶって。そうでないと政財界なんて場所で生きていくことなどできないのだから。物心ついた時にはそれが当たり前で日常だったから、自分の心を偽ることに疑問すら抱かなかったのに。
「ねえ、本当のこと言ってよ」
 君の鋭い声が、僕の心をかき乱す。やめて、やめろよ。思い出させないでくれ、こんな真っ先に切り捨てた感情を。
「辛いときは辛いって、悲しいときは悲しいって、素直に言って。助けてほしいってちゃんと自分から手を伸ばして。じゃないと君の心が壊れちゃうよ」
 体がいくら健康でも、心が健康じゃなかったらダメなんだよ。そう静かに付け足した君は、僕の心臓の上にとんっと握り拳を置いた。扉でもノックするように、君の手がこんこんと軽く僕の胸を叩く。
 わからない。わからないよ。だって僕は大丈夫だ。大丈夫じゃなきゃいけない。ああ、だけど。
 心臓が痛い。頭が割れそうに痛い。喉の奥がひりひりと切ない痛みを訴えた。ギュッと握り込んだ拳の痛みで誤魔化そうとしても、自覚してしまえば一気に決壊してしまう。
「……たすけて」
 囁くような声が、気がつけば自分の口から飛び出ていた。僕のその言葉に、自称『心の健康を守るお医者さん』は満足そうに笑う。
「任せて!」
 力強い君の声に、強張っていた全身からふっと力が抜けるのがわかった。

8/13/2023, 12:08:47 AM

【君の奏でる音楽】

 繊細にして高らかなヴァイオリンの響き。幼い頃から音楽の世界で神童の名をほしいままにしていた君が、私の誕生日に私のためだけに奏でてくれるその音色が、何よりも好きだった。
 ぶっきらぼうで表情にも乏しい君の心は、音楽に一番反映される。誰からも生まれたことを祝ってもらえない私へと、いつだってありったけの祝福を込めて、君はヴァイオリンを奏でてくれた。
(好き、だったんだよ)
 テレビの中から聞こえてくるベートーヴェンのクロイチェルソナタ。海外公演の録画映像を専門チャンネルで流してくれているそれを、日本の狭いワンルームでぼんやりと眺めていた。
 ライブ映像ではないことを少しだけ残念に思うけれど、時差の都合上致し方ない。こっちは早朝だけれど、今ごろ現地は深夜のはずだ。きっと君は公演を終えてぐっすりと眠っている。
 君が有名になっていくたびに、君との距離が遠のいていく気がする。今ではもう、手の届かないほどに君は輝かしい世界へと旅立ってしまった。それを誇りに思う気持ちも応援している気持ちも本当なのに、心のどこかで醜い私が寂しいと叫んでいる。
 ピロンと音を立てたスマホの通知が、テレビから流れる君の滑らかな音色を遮った。たいした興味もなしにスマホの画面をチラリと見て、そうして息が止まるかと思った。
 君の名前で送られてきた音声ファイル。メッセージの一つもないそれを、震える手でタップした。
 聞き馴染んだハッピバースデートゥーユーの歌が、ヴァイオリンの優雅な音色で奏でられる。どんな難しい古典の名曲でも軽やかに弾きこなす君が、こんな世俗的な音楽を優しく紡いでいる。思わずスマホをぎゅっと握りしめた。
 君の奏でる音楽があるから、私は私が生まれてきて良かったって思えるんだ。ありがとうとスマホに打ち込んで、私は君の与えてくれる美しい祝福に浸り込んだ。

8/11/2023, 9:32:44 PM

【麦わら帽子】

 カタカタと音を立てながら、ミシンが麦わら帽子を編み上げていく。足元のペダルで器用にミシンを制御する君の横顔は真剣そのもので、私はその様を眺めているのが大好きだった。
 一度だけミシンを触らせてもらったことがあるけれど、麦で作られた紐はすぐに波打ってしまって、平面に縫うことすら難しかった。模様まで織り込む精緻な編み込みができる君の腕前の高さを実感したことをよく覚えている。
 集中している君に話しかけても無駄だ。周囲の音なんて何一つ入っていない。だから私は勝手にお茶を淹れて、畑から刈ってきた向日葵を勝手に牛乳瓶へと飾る。家の中だけど帽子は被ったままで、手元の文庫本を開いた。
 小気味の良いミシンの音を聞きながら、本のページをめくる。太陽が西の空へと沈む頃になって、ようやく規則的な機械音がぷつりと止まった。
「あれ、来てたんだ」
「うん、勝手にお邪魔してます」
 完成したらしい麦わら帽子が、作業台に並んでいる。君の作る麦わら帽子はあまりに美しくて、まるで芸術作品みたいだ。色濃い麦の香りが、気持ちを優しくほどいてくれる。
「良かった、ちゃんと似合ってるね」
 私のかぶった麦わら帽子を見て、君は安心したように笑った。前に作ってもらったものは実用性を重視していたから、少しおしゃれなものも欲しいのだとねだって、オーダーメイドしてもらった特別な帽子。適当なものでも良かったのに、せっかくなら一番似合うものにしたいからといくつも作り直してくれた。
「ねえ、今から帝都まで行って、夕食にしない?」
 こうして君を誘うために、今日はこの作業小屋を訪れた。職人気質な君は嫌な顔をするんじゃないかって、ドキドキと心臓がうるさい。
 君の作ってくれた麦わら帽子が一番美しく引き立つように、髪型も洋服も一生懸命選んだのだ。君の横で、帝都の人々に自慢したい。私の幼馴染が作る麦わら帽子は、こんなにも素晴らしいのだと。
 ぱちりと君の瞳が瞬く。そうして君は私の頭へと手を伸ばした。少しだけ曲がってしまっていたらしいリボンの角度を直し、満足そうに頷く。
「良いよ、行こうか。着替えてくるから待ってて」
「うん、待ってるね!」
 弾む声で応じた。君と二人で帝都へ出かけるのなんていつ以来だろう。生まれは帝都なのだという君は、あの華やかな街があまり好きではないらしい。それでも数年に一度、こうして私が誘えばいつだって断りはしなかった。
 きっと君は、私に甘い。でも私だって、君以外の人を夕食へ誘おうとは思わないし、君以外の作った帽子をかぶるつもりもないのだから、お互い様というやつだ。
 麦わら帽子の編み込みを指先でなぞり、私は思わずくすりと微笑んだ。

8/10/2023, 10:21:59 PM

【終点】

 ゴトンゴトンと音を立てて、電車が揺れる。満員だったはずの電車は駅に停まるたびに人を吐き出し続け、いつしか車両の中には私と君の二人だけになっていた。
 私の肩に頭を預けて静かな寝息を立てる君の目元には、ひどい隈が浮かんでいる。車窓から差し込む太陽の光の眩しさがあまりに不釣り合いで、無駄とは知りながら君の顔の前に手を翳した。
 制服のポケットの中でスマホが震える。ちらりと通知を見れば、無断欠席をしたことに対する友人からの心配のチャットだった。見なかったことにしてスマホの画面を消す。私にとっては数だけは多い表面上の友人たちなんかより、君一人のほうがずっと大切だった。
 学校へ行くための乗り換え駅に辿り着いた時、君が「降りたくないなぁ」と小さくこぼしたから。私は君の腕を取って、電車を降りるのをやめさせた。そうして二人きり、電車に揺られ続けてここまでやってきた。
 車掌のアナウンスが終点を告げる。その音に君の瞼がゆっくりと持ち上がった。
「おはよう」
「……おはよ」
 まだぼんやりとしているのか、反応が普段よりも一拍遅い。眠たそうに目を擦った君は、そこではたと現状を思い出したのか眉を下げて私を見つめた。
「こんな所まで来てどうするの?」
「んー。終点で降りて、二人で日が暮れるまで遊ぼうよ」
 夜になったら帰らなければならない。このまま二人で遠くまで逃げようと言ってあげられほど、私は世間の厳しさを舐めてはいなかった。高校も卒業していない世間知らずの家出人二人が真っ当に生きていくなんて、できるはずもない。
 電車の終点までの、一日だけの逃避行。私が君にあげられるものはそれだけだ。なのに君は、この世で一番嬉しい言葉でも聞いたかのように、今にも泣きそうな顔でくしゃりと笑った。
「ありがとう」
 ゆっくりと電車がスピードを落とす。ああ、もっと遠くまでこの線路がつながっていてくれれば良かったのに。たまに避暑へと訪れる隣県の山間の地名を眺めながら、心の中だけで呟いた。

8/9/2023, 9:57:12 PM

【上手くいかなくたっていい】

 真夜中の誕生日会、大人たちの度肝を抜く悪戯に、子どもだけのティーパーティ。いくつもの計画を君と二人で実行してみたけれど、今回のこれは一段とぶっ飛んだものだった。
 ――狭く古臭い村から、二人で逃げ出す。念入りに計画を立てはしたけれど、本当に実現できるのかと思うと心臓がやけに痛かった。
 静寂に包まれた夜を、黄金色の満月が包んでいる。緊張を少しでもほぐそうと大きく息を吸い込めば、湿った葉の匂いが広がった。
「なに? ビビってんの?」
 トンッと君の手が軽く僕の背を叩く。揶揄うような口調とは裏腹に、その手の温もりは驚くほどに優しかった。
「気楽にいこうよ。上手くいかなくたっていいんだからさ」
 軽やかな口調に、全身が凍りつくような心地がした。急激に体温が下がっていくような感覚。僕は君と二人で生きるために、これだけ真剣に計画を練ったのに。君にとってはそんな程度のどうでも良いものだったのか。一瞬よぎった絶望は、続く君の言葉にあっさりと打ち破られた。
「今回上手くいかなかったら、また計画を練り直そう。で、上手くいくまで二人で続ければ良い。それだけだろ?」
 ニッと笑った君の顔を、月影が明るく照らし出す。ああ、僕の親友はやっぱり最高に眩しい。いつだって僕のことを力強く引き上げてくれる。
「うん、そうだね。もしも上手くいかなくたって、僕たちなら大丈夫だ」
 握った拳をぶつけ合う。上手くいくまで何度でも、僕たちは手を取り合って、挑戦し続けることができるんだから。先ほどまでよりは随分と軽くなった気持ちで、僕は空を見上げた。
 まんまるい月は相も変わらず煌々と、そんな僕たちを見守っていた。

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