【蝶よ花よ】
窓辺に頬杖をついて、雨の打ち付ける外を眺めながら。君は不機嫌そうに吐き捨てた。
「蝶よ花よって言うけどさ、そもそも人間ってそんなに蝶のことも花のことも大切にしてなくない?」
せっかくの外出の予定を、大雨のせいでご両親から却下されたことがよほど腹に据えかねているらしい。
「結局は自分の手元に置いて、自慢の道具にしたいだけでしょ。可愛がってるんだなんて正当化するの、やめれば良いのに」
そうは言っても、幼い頃は体の弱かった君を案じるご両親の気持ちも、わからなくはない。曖昧に笑って誤魔化しつつ紅茶の用意を進めていれば、君はわざとらしく唇を尖らせた。
「ちょっと、あの人たちの味方するつもり?」
「そういうわけじゃないよ。まあご当主様と奥方様の行動が、支配欲だけのものだとも思わないけど」
五割の支配欲と五割の心配。たぶん実情はそんなところだろう。むう、と頬を膨らませた君の前に、ストレートのアッサムを。君が一番好きな銘柄の紅茶だ。
「まあ、蝶も花も君には似合わないよね」
好奇心旺盛で活発で、誇り高く潔い。ご当主様たちの望むお人形のような娘とは程遠いだろうけれど、領主の娘としての貫禄は十分だ。少なくとも僕の知る村の人たちは皆、彼女のことを好意的に受け入れている。
「じゃあなんなら似合うと思うの?」
君の口角が楽しそうに持ち上がっていた。だから僕は、軽く君の背中を叩く。使用人としては本来許されない振る舞い。だけど君が対等でありたいと強く望むから、君と二人きりの時だけは僕はこうして気安く君に接する。
「蝶よりは鳥だし、花よりは大樹じゃない?」
鳥のように自由な発想で、大樹のようにそこにあるだけで人々を安心させる――支配階級としての君に、期待を寄せる人間は少なくない。もちろん僕も含めて。
きっと普通のお嬢様にとっては不服極まりないだろう評価に、けれど君はそれはもう明るく不敵に笑った。
「あははっ。良いね、最高!」
そんな君だから僕も、たとえ何に変えたって君を守りたいって思うんだ。なんて、こんなことを言えば「君まで蝶よ花よ扱いしないでよ」って怒るのがわかっているから、絶対に口に出すつもりはないけれど。
【最初から決まってた】
目の前に差し出された鮮やかな薔薇の花束。思わず目を瞬かせてその持ち主を見上げれば、数日前に僕との婚約を一方的に破棄したはずの元許嫁が、朗らかな笑みを浮かべて立っていた。
「これは何の真似?」
少しだけ声が険しくなってしまった。だって生まれた時から家の事情で決められていた婚約とはいえ、君とはそれなりに良好な関係を築いてきたつもりだったのだ。それなのに事情のひとつも説明せずに姿をくらませた君に対して、怒りを覚えるなというほうが無理な話だった。
最初から決まっていた結婚。逃れられない運命。……それでも僕が君を好きになって、君が僕を好きになったのは、自分たちの意思だって胸を張っていたかったのに。
「私さ、決められた運命って嫌いなの。だって私が君と一緒に生きたいって思ったのは私自身の意思なのに、許嫁だからの一言で済まされるのってムカつかない?」
高らかな声で君は告げる。だけどその声色には明白な苛立ちと軽蔑が透けていて、まあたぶんそうとう腹に据えかねることを誰かに言われたんだろうなって想像はついた。
「だから、婚約は破棄させてもらったわ。で、改めてなんだけど――」
ずっと花束が押し付けられる。十二本の赤い薔薇。この前二人で観た映画で、主人公がヒロインに告白していたときと同じものだ。
「君が好きです。私と結婚してください」
まっさらな状態から口にされたプロポーズ。ああ、もう。あんなに腹を立てていたはずなのに、馬鹿正直にドキドキと高鳴る自分の心臓が恨めしい。結局結婚することに変わりはないのに、こんな突拍子もないことをし始める君のことが、やっぱり僕は大好きなんだ。
「うん、良いよ。一緒に幸せになろう」
君は運命なんて大嫌いだと言うけれど。僕はそれほど嫌いではないんだよ。だってきっと、どんな形で生まれてどんな形で出会おうとも、僕が君を好きになることは、最初から決まっていた運命に違いないのだから。
【太陽】
「ねえ、イカロスの翼って知っている?」
薄暗い地下室の底。柔らかな君の声に、作業の手を止める。はんだごてを一度手放し、僕は後ろを振り返った。
「まあ、一般教養レベルには知ってるけど」
空を飛ぶ翼を手に入れたイカロスは、父親の言いつけを破ってその翼で天高くまで昇り、そうして太陽に近づきすぎて翼を失い地に堕ちた。ギリシャ神話に記された物語。人間が技術を過信し、自然を侵すことへの戒めとも言われていたはずだ。
君の言わんとしていることは理解できた。だけど僕も譲るつもりはない。会話は終わりだと告げるように、作業台へと向き直った。
「あなたのしようとしていることは、イカロスと同じだよ」
「うるさいな、黙っててよ」
噛み締めた奥歯がギリっと醜い音を立てた。ピッピっと規則正しく鳴る機械音が、君の命が繋がっていることを教えてくれる。医者も科学者も宗教家も、全員が匙を投げた不治の病。君がもう一度、太陽の下を笑って歩ける未来のためなら、僕は神様にだって喧嘩を売ってやる。
「……あなたを犠牲にしてまで助かりたいなんて、思ったことないよ」
囁くような君の声は聞こえなかったフリをして、僕は君を救い出すための研究へと没頭した。
【鐘の音】
厳かなる鐘の音が、雨に包まれた街に今日も鳴り響く。ああ、また誰かが死んだのか。閉ざした小屋の窓からぼんやりと、僕は遠くに霞む鐘撞台を見上げた。
人が死ねば追悼のために鐘を鳴らす。それがこの街のルールだ。降り止まない雨の影響で生活が立ち行かなくなり、ここのところは毎日のように鐘が撞かれていた。
薄いシーツを頭からかぶり、カタカタと小さく震える君の身体をそっと抱きしめる。宥めるように何度も、その背を優しく撫でながら。
「大丈夫、大丈夫だよ。君のせいじゃない」
君の身体から立ち上がる無限の魔力。制御の効かなくなったそれが天へと昇り、雨雲を生み出し続ける。
君を殺してしまえば、この鐘の音はやむのだろう。だけどそんなこと、僕にできるはずがない。僕を救ってくれた君の命を、この手で奪うことなんて。
響き続ける鐘の音は、僕の罪の証。君を匿い、君を生かし続けている僕の罪悪。鼓膜を震わせる清浄なる追悼の音色を聴きながら、僕はただ君の耳を優しく塞いだ。
【つまらないことでも】
たとえばたいして親しくもない職場の連中との飲み会や、全世界が泣いたなんてキャッチコピーのつけられた後輩オススメの映画の鑑賞。断れないからやっているだけのつまらないことなんて、世の中にはごまんとある。だけど。
――ぱちゃん。水音が跳ねた。自宅の壁面に設置した巨大な水槽。その中で君が楽しそうに真っ赤な尾びれを揺らす。
金魚のようなひれを持つ君は、だけど確かにその顔も基本的な構造も全て人間だ。昔は俺たちと同じように二本の足で地面に立っていた。だけどいつからかひれが生え始め、呼吸が陸ではできなくなり、今ではこうして閉ざされた水槽の中でしか生きられない。
「それで? そのあとどうなったの?」
水槽の向こうから響くくぐもった君の声。どんなにつまらないことでも、外の世界に出ることのできない君は、キラキラと目を輝かせて話を聞きたがる。だから俺は、君に語り聞かせるためだけに、どんなにくだらないと思うことでも積極的に経験するようになった。
君が無邪気に笑っていられるように。水槽のガラス越しにしか空を眺めることすらできない君が、なるべく退屈せずに済むように。つまらない経験を面白おかしい物語へと変えて、俺は今日も声を紡ぎ続けるのだ。