いろ

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8/3/2023, 9:51:34 PM

【目が覚めるまでに】

 仕事で疲れた体に鞭打って、白み始めた東の空を眺めながら早足で帰宅する。寝室のベッドで眠る君の横顔を眺める時間が、いっとう好きだ。
 カーテンの向こうから、朝日が柔らかく差し込む。早朝から仕事へ出かける君のかけた目覚ましが、もうすぐ鳴り響くだろう。仕事の時間が全く噛み合わない君とのんびり共に過ごせるのは、無理矢理に休みを合わせる一年に二日もあるかないかの機会だけだ。それでも君以外の人を見つけようとは思わないのだから、たいがい末期なのかもしれない。
 君の目覚めをここで待っても良いのだけれど、構っている暇があるならとっとと寝ろと君は怒るから。だから君の頬に、そうとは知られないようにそっと口づけだけを落とす。
「おはよう、今日も良い一日を」
 祝福を囁くように言祝いで、君の寝室を出た。君の目が覚めるまでに、この一連の儀式をする。そのために仮眠も取らず、朝一番の始発電車に飛び乗って大急ぎで帰ってきているのだ。
 ふわあと大きなあくびがこぼれた。ああ、眠い。泥のような眠気が脳を侵していく。自分のベッドに倒れ込んだ瞬間、意識はぷつりと飛んでいた。

「おやすみ、良い夢を」
 柔らかく囁くその声を、知らないまま。

8/2/2023, 9:53:30 PM

【病室】

 もぬけの空になった病室を、てきぱきと片付けていく。塵を除き、人の手の触れやすいドアやベッドサイドテーブルの表面を除菌し、床を清掃。果たしてここに入院していた人がどうなったのかは、クリーニング屋に過ぎない僕には知る権利がない。
 僕にできることはただ、次にここを使う人が少しでも気持ちよく過ごすことのできるように、丁寧に繊細に掃除をすることだけだ。
 隅々まで清掃を終えて、最後に空気を入れ替えるために病室の窓を開け放った。鮮やかな新緑が目に眩しい。吹き込んできたさわやかな風が、優しいベージュの色合いのカーテンをそよそよ揺らした。
 僕には患者さんのことはわからない。だから勝手に想像する。きっと今までこの場所を使っていた人は、笑って家族の元へと帰っていったのだと。そうして勝手に祈るのだ。どうか次にここを使う人の道行きにも、溢れんばかりの幸いがありますようにと。
 神様。どうか次のお客さまにも祝福を。胸の前で小さく十字を切って、僕は次の病室へと向かうために目の前の窓をぱたんと閉める。真っ白い清潔な病室は、次の患者さんを受け入れるために粛然とそこに佇んでいた。

8/1/2023, 9:53:52 PM

【明日、もし晴れたら】

 窓に吊り下げられたいくつものてるてる坊主が、軽妙な笑みを一様に浮かべている。ぶらぶらと揺れるそれを指でつつけば、君は少しだけ恥ずかしそうに笑った。
「もし晴れたら、少しだけ外に出ても良いよって言われてて」
 病院の無機質な窓の向こうには、雨粒が激しく打ち付けている。梅雨なのだから仕方がないことだけれど、毎日この真白い部屋の中から重たい雨雲を眺める君の心情を思うと、神様を罵りたくなった。
「ねえ、明日は学校はお休みなんだよね?」
 君の問いかけに一つ頷いた。と、君はパァッとその顔を輝かせる。無邪気で明るい君の笑顔は、いつだって僕の心を温かなもので満たしてくれた。
「じゃあ明日、もし晴れたら。一緒にお出かけしてくれる?」
「うん、もちろん。君の行きたい場所、どこにだって付き合うよ」
 約束だよ、と。どちらともなく小指を絡め合った。ゆびきりげんまん、なんて軽やかに歌い合う声が、静寂に包まれた病室に響き渡る。君の氷のように冷たい体温が、指先にやけに残った。


 ざあざあ降りの雨を窓から眺めながら、てるてる坊主の頭をぐしゃりと握りつぶす。
「結局約束、守れなかったね」
 主人を失ったがらんどうの病室で、僕は小さく呟いた。

7/31/2023, 10:23:28 PM

【だから、一人でいたい。】

 花火大会の夜は、どこもかしこも人がごった返している。私も何人かに誘われたけれど、結局全部断ってしまった。
 マンションの窓からは、遠くにかろうじて鮮やかな花火が見える。ドンっドンっと鼓膜を揺らす花火の音に耳を傾けながら、一人チューハイの缶を傾けた。
 花火を眺める私の隣に君がいなくなってから、もう三年になる。開け放たれた窓から入り込んでくる夏の湿り気を帯びた熱風が、肌をざらつかせた。
 誰かと共にさわがしく過ごせば、きっとこの胸の痛みは気にならない。君と二人で見た花火の苦く切ない思い出も、騒々しく明るいものへと簡単に上書きされる。だからこの夜だけは、一人でいたいんだ。私はこの痛みを、この思い出を、永遠に忘れたくない。
『え、今の無茶苦茶綺麗じゃなかった?!』
 たかだか花火で何をそこまで盛り上がるんだろうってくらいに全力で楽しんでいた君の姿を、脳裏に思い浮かべる。君と過ごした二年間よりも長い時間を、既に私は一人で過ごしてしまったけれど。それでも君と過ごした時間は、私の人生で最も尊く煌めく、美しいものだったよ。
 あっさりとこの世界から消えてしまった人の面影を辿りながら、私は勢いよくチューハイを煽った。

7/30/2023, 10:23:21 PM

【澄んだ瞳】

 ずっと忘れられない瞳がある。これから首を落とされるというのに、怯えた様子ひとつなく。堂々と背筋を伸ばし、刑場へと歩んでいく人の。
 腰の刀に手をかける。罪人の首を斬り落とすのには慣れていた。物心ついた頃からずっと、そのためだけに剣の腕を磨いてきた。ああ、それなのにどうして。
 かたかたと指先が震える。君を殺したくないなんて、馬鹿げた思考が頭の中を明滅して仕方がない。罪とはいったい何なのだろう。幕臣を非難するような文章を書いたこと、それは本当に首を落とされるほどの罪悪なのだろうか。
 僕の迷いを見透かしたように、君はちらりと僕へと視線を向けた。美しく鮮やかで、澄み渡った瞳だった。
「さようなら、よろしくね」
 小さく囁いた君の瞳。僕がこの手で閉ざしたその色を、今でも僕は思い出す。大切に大切に、胸に抱き続けている。
(大好きだったよ、ずっと)
 届けることのできなかった君への慕情を、じくじくと膿んだ胸の中へとたゆたわせた。

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