【夜の海】
闇の底のように厳かで静かな夜の海は、まるで私たちを飲み込もうとしているみたいだ。波の音すらも獣の唸り声のよう、恐ろしさに身慄いする私の横で、君が明るい歓声をあげた。
「すごい! キラキラしてる!」
満面の笑みで君が指差した先には、月と星の光が海面に反射している。そこで初めて、目の前の大海はただの暗闇ではなかったことに気がついた。
はしゃいだ君が砂浜を駆けていく。危ないよという私の制止は届かない。波打ち際に足を浸した君は、ぱちゃぱちゃと音を立てて、打ち寄せる波と戯れ始めた。
あれほど深淵からの呼び声のようだった波の音が、君の立てる軽快な水飛沫に紛れて愛嬌を帯びる。あれほど感じていた畏怖の念なんて、気がつけばどこかに飛んでいってしまっていた。
私にとっては恐ろしくて冷ややかなこの世界を、いつだって君は美しく鮮やかに彩っていく。君と見る景色は、悪くない。
ふふっと微笑んで、月光と星明かりに包まれた煌めく海へと私は一歩を踏み出した。
8/15/2023, 9:49:06 PM