【視線の先には】
君はたまに、虚空を眺めている時がある。ぼんやりと何もない空中を見て、時に首を捻ったり、大きく首肯したり。隣同士の家で幼馴染として育った私はずっと、不思議な子だなぁと他人事のように思っていた。
それが変わったのは、私の母が急逝した次の日だった。母の痕跡が色濃く残るリビングで、現実を受け止められずに立ち尽くしていた私の手を、君は力強く引いた。
「おばさんの寝室の、ベッドサイドの引き出しの上から二番目。良いから確認して」
相変わらず視線を宙へと向けながら、君は私を母の寝室へと連れ込んだ。言われるがままにのろのろと引き出しを開ければ、五日後に控えた私の二十歳の誕生日に渡すつもりだったらしいバースデーカード。ぼろぼろと泣き出した私の背中を不器用な手つきで撫でながら、君は小さく呟いた。
「こいつのことは、俺がちゃんと見てますから」
そうして私が立ち直るまで、君はなにかと気を遣って声をかけてくれた。あの時初めて、気がついたんだ。君の視線の先にあるものが、いったい何だったのか。
大学構内のカフェテリア。相変わらず君はぼんやりと窓の外を眺めている。私には君と同じ世界を見ることはできないけれど、だけどそれでも君の視線の先にあるものを理解したいとは思うんだ。
だから君の隣に許可もなく腰掛けて、君の見ているのと同じ場所をじっと見つめる。
「ねえ、今日はどんな人が見えてるの?」
朗らかに問いかければ、君は「ほんとに物好きだよね」と呆れたように嬉しそうに笑った。
【私だけ】
友人たちと廊下の片隅で立ち話をしていれば、ほとんど視線すら向けられないまま、私の手元へと書類だけが放られる。慌てて口を開こうとした時にはもう、君は早足で歩き去っていた。
「ちょっと、これ期限いつまで?」
放課後の喧騒に負けないように君の背中へと声を張り上げれば、明後日とだけ短く返ってくる。やれやれと息を吐きながら書類をパラパラとめくっていると、友人たちが同情の視線を私へと注いできた。
「会長ってあんたにだけ厳しくない?」
「普段あんなにみんなに優しくて、ニコニコしてるのにね」
口々に好き勝手言い始める友人たちに、まあねと適当に相槌を打ちながら、書類の中の重要そうな項目に目を通していく。
確かに彼は私にだけは横暴だ。だけど私からしてみれば、あの傍若無人で傲慢な幼馴染が『優しい』なんて評されていることのほうが驚きだった。外面を取り繕うのが上手くなったものだなぁなんて、若干の微笑ましさまで覚えてしまう。
私だけが知っている、完璧な生徒会長の粗雑な側面。私だけが見せてもらえる君の本質。ちょっとした優越感を胸に、私は書類のページを丁寧にめくった。
【遠い日の記憶】
物心ついた時からずっと、脳裏に焼き付いて離れない景色がある。バカみたいに青い空の下で、誰かが頬杖をついている。僕へと視線を向けてにこりと笑ったその人は、楽しそうに口を開くのだ。
『 』
声も聞こえない、顔も見えない誰か。だけどきっと、僕にとって大切だったはずの思い出。こんなことを言ったら周囲には呆れられるだろうけれど、それでも僕はひそやかにこれは前世の記憶なのだと信じている。
(早く会いたいな)
きっと君に会えば、思い出すことができるはずなんだ。遠い遠い日の記憶を反芻するたびに胸を締め付ける、この愛おしく切ない感情の正体を。
夏の日差しに手をかざし、ペットボトルの水を勢い良く飲み干して。そうして僕は、君を探すための旅路の歩みを再開させた。
【空を見上げて心に浮かんだこと】
禊を済ませたら河原に寝転がり、青空を見上げる。深呼吸をして心を空っぽにし、呪文を三回繰り返す。そうして心に浮かんだ景色が、未来の片鱗である――それがうちに代々伝わる未来視の秘術だ。
別に未来になんて興味はないし、むしろ知らないほうが人生は楽しいと思うけれど。命じられるままに術を行使し、国の末長い安寧に貢献することこそが、僕たちの家に課せられた使命だった。
禊で濡れた全身が、冬の北風にさらされて凍てつきそうだ。ガタガタと震える身体を横たえて、肺の深くまで冷ややかな空気を吸い込んだ。寒い。なんでこんなことをしなければならないんだ。そんな感情を鎮めて、神の意志が入り込める穴を心に開ける。
ああ、浮かびそうだ。そう思った時、目の前に見慣れた顔が覗いた。
瞬間、息が乱れる。空っぽにした心に数多の情動が駆け巡る。グシャグシャになった感情の奥で、仄暗い嫉妬と泣きたいくらいの愛おしさが混ざり合った。
「うわぁ。まだそんな時代錯誤な術、使わされてんの? バカみてぇ」
「うるさいなっ……せっかく視えそうだったのに邪魔すんなよ」
何年も前に家を出て行った双子の兄が、嘲るように笑っている。ああクソ、僕はあんたとは違うんだ。あんたみたいに外の世界へ飛び出す度胸も、家を裏切る覚悟も、何ひとつない。
ぴたりと、頬に温もりが触れた。氷みてぇと呟いた兄は、軽やかに僕へと手を差し伸べる。
「ま、良いだろ。もう上の言いなりになる必要もねぇんだし」
この兄は何を言っているんだろう。僕のことを置いていったくせに。おまえの面倒まで見れねぇよとあんたが言うから、せめてあんたが自由に生きられるようにと、僕が上の要求に完璧に応えてみせることで、あんたを連れ戻そうとするヤツらを抑え込んでやっていたのに。
「後ろ盾は充分に手に入れたからな。迎えにきたぜ、一緒に行こう」
兄のこんなに真剣な声を聞いたのは、人生で初めてかもしれない。息が止まる。驚きで感情が抜け落ちた瞬間、心にひとつの情景が浮かんだ。
兄が笑ってる。僕も笑ってる。そんな幸福な未来の断片。思わずぽろりと、涙がこぼれ落ちた。
「うん。待ってたよ、兄さん」
にっこりと微笑んで告げれば、ぎゅっと身体を抱き込まれる。回された腕の燃えるような熱さが、心地良かった。
【終わりにしよう】
いつものように街をぶらついて、いつものように映画を観て、いつものように入った喫茶店。個人経営の落ち着いた店内には、心地の良いクラッシック音楽がゆったりと流れている。ボックス席の向かいでミルクレープを美味しそうに頬張る君を眺めながら、僕は小さく息を吸い込んだ。
出会ってから十年以上、誰よりも親しい友人という関係性を続けてきた。お互い恋人がいた期間もあるし、互いにずぼら同士、連絡を頻繁に取るわけでもない。
別れた恋人たちのことを思い出す。毎日のようにSNSで睦言を交わすのは面倒だったし、デートをしていても君とならもっと気楽なのにとしか感じられなかった。あの子たちと一緒に生きる自分の姿なんて想像もできなかったけど、君の隣でしわくちゃのおじいちゃんになる自分は容易に思い浮かぶ。
どきんどきんと自分の心臓が痛いくらいにうるさい。だけどもうお互いにいい歳で、僕も君も両親からお見合いの話なんかを振られるようになった。これ以上、先延ばしにはしていられない。
「ねえ、君に話があるんだ」
緊張で情けなく震えた僕の声に、君はかちゃりと音を立ててフォークを置いた。さっきまでお気に入りのミルクレープに疲れていたのに、真剣な表情で僕へと向き合ってくれる。そういうところが――。
(好きだなぁ)
だからもう、終わりにしよう。特別な友人なんて曖昧な定義で、自分を誤魔化し続けるのは。余裕ぶった笑顔を必死に取り繕って、僕は唇を持ち上げた。
「僕と一生、一緒に過ごしていくつもりってない?」