いろ

Open App
7/15/2023, 1:43:16 AM

【手を取り合って】

 茹だるように暑い夏の日だった。目に痛いほどに青い空に、真っ白い入道雲がぽっかりと浮かんでいる。じいじいと五月蝿い蝉の声が、暑苦しさを更に増していた。
 ギコギコと錆びついた音を立てて、君は腰掛けたブランコを揺らす。空虚な眼差しで濃い影の落ちた地面を見つめている君の、玉のような汗の伝う頬には、真新しい痣がくっきりと刻まれ、痛々しく腫れ上がっていた。
 過干渉で気に入らないことがあるとすぐに手を上げる親の元に生まれた君と、一切の関心を子供に向けようとしない親の元に生まれた僕。食事代として机の上に置かれていた数枚の千円札を、ポケットの中でくしゃりと潰した。ぐう、と僕のお腹が空腹を訴え小さく鳴る。
「大丈夫?」
 弾かれたように君が顔を上げる。自分のほうがよっぽど大丈夫じゃないくせに他人の心配ばかりする。そんな君の優しさが心配で、腹立たしくて、愛おしいんだ。
「ねえ、一緒にここを出よう」
 なるべく笑顔で、君へと手を差し出した。骨張った手は醜くて、少しだけ恥ずかしい。それでも君だけは僕の不恰好な見た目を笑うことはないと、そう知っていた。
 机の上に毎朝置かれている食事代。食事量を抑えて、必死にそれを貯金し続けた。君と二人でこの町を出て、どこか別の場所で生きていく、そのための資金を得るために。
 でも、と。喘ぐように呟いた君へと、浮かべた笑みを深くする。大丈夫だよと安心させるように。
「君を殴る大人も、僕を邪魔だって無視する大人もいない世界で、一緒に生きよう」
 夏だというのに長袖を着た君の手が、恐る恐る伸びてくる。僕の指に触れた瞬間に怯えるように引いたその手を、ぎゅっと握り込んだ。そうすると君もようやく、僕の手を握り返してくれる。
 二人きり手を取り合った、暑い暑い夏の日の話だった。

7/14/2023, 3:24:41 AM

【優越感、劣等感】

 神様は理不尽だ。天は二物を与えずなんて真っ赤な嘘。あらゆる面で優秀なエリートというのは当然この世にいるし、何の才能にも恵まれない平凡なヤツだっている。そうして当然のように、僕は後者に分類される人間だった。
 ドリップしたコーヒーに、温めたミルクを注ぎ込む。苦く芳醇なコーヒーの香りが好きな身としては、せっかくの美味しいコーヒーにミルクを入れるなんて邪道に等しいと思うけれど。ミルクと砂糖をたっぷり入れないとコーヒーを飲めない子供舌な君のためには致し方ない。自分のぶんのブラックコーヒーと、君のためのミルクコーヒーをトレイに載せて、僕はリビングでパソコンと睨めっこをしている君の元へと歩み寄った。
 紅茶でもジュースでも好きなものを用意するよと何度言っても、君は飲めやしないコーヒーを飲みたがる。不思議だよなぁと思うけれど、君のような天才の思考回路が僕にわかるはずもないから、理由を考えることそのものをとうに放棄していた。
「ありがとう」
 パソコンのモニターから視線を外さないまま、君は声だけを僕へと向けた。マグカップを雑に掴み、見もしないで一口。その瞬間、げほりと激しく君はむせ返った。
「ちょっと、これ砂糖入ってなくない?!」
「あはは、ごめんごめん。うっかり忘れてたよ」
「絶対わざとじゃん!」
 むくれた君の白い頬をツンと指先でつついた。容姿端麗、頭も良ければ人脈もあり、行動力にも溢れた、非の打ちどころのない完全無欠のエリート様。君の隣にいるといつも、自分自身の凡庸さを痛感させられて、果てのない劣等感がちくちくと刺激される。
 だけどそんな完璧な君が、僕なんかに構い、僕なんかの一挙手一投足で顔色をころころと変え、無邪気に笑い、子供のようにむくれてくれる。それがどうしようもなく幸せで、だから僕はこうして肥大した劣等感を持て余しながら、君の隣に立ち続けている。
 神様は理不尽だ。だけど非凡な君が凡人の僕を選んでくれたというその事実だけで、僕は世界の全てに対して仄暗い優越感をひけらかして、君の隣で笑って生きていけるんだ。

7/12/2023, 1:36:38 PM

【これまでずっと】

 ざぷんざぷんと寄せては返す波の音が、夜の浜辺に静謐に響き渡る。揺れ動く水面に浮かんだ満月をじっと見つめながら、僕は自分の膝を抱え込んだ。
 何度も君と共に見た景色。僕の心が摩耗するたびに、君が僕の手を取って連れて来てくれた場所。
 温かな食事がこの上もなく美味しいことも、誰かを傷つけてはいけないのだという倫理観も、君の隣にいる時だけやたらと跳ね動く心臓の鼓動のやかましさも、人間として生きるために必要なものは全部君が与えてくれた。君の存在が、僕を僕として生かしてくれていた。
 君がいなければ、僕はただの抜け殻に戻ってしまう。これまでずっと、そう信じてきたのに。
(何でだよ)
 誰にも届くことのない怨嗟の念を、心の中だけで吐き捨てた。この世界のどこにも、もう君はいないのに。なのに僕は人間の形を保ったまま、人間のように思考をして息をしている。肺の奥の空気を全て、深く深く吐き出した。
(何で僕の心も、一緒に持っていってくれなかったんだよ。馬鹿)
 君がいなければ生きていけない――ずっと信じてきたその想いがしょせん嘘だったこと、知りたくなんてなかったよ。

7/11/2023, 12:25:51 PM

【1件のLINE】

 自室のソファにごろりと横になったまま、スマホを立ち上げる。行儀が悪いよなんて嗜める君の声が、耳の奥で響いたような気がした。
 スマホの画面の中、LINEの緑色のアイコンの右上に赤いマークが主張している。一件の未読のメッセージを示すそれをつけっぱなしにして、もう一年以上になるだろうか。何度も何度も君とのトークを開こうとしては、その衝動を押し留めた。
 君と積み重ねた思い出を、君と交わしたくだらないやりとりの軌跡を、辿りたいのは本当。だけどこのメッセージを読んでしまったら、私がまだ触れていない君の言葉は、この世界のどこにも無くなってしまうから。
 ああ、なんて未練がましいんだろう。君がもういないこと、ちゃんと受け入れているつもりなのに。だけど君が淹れてくれる紅茶の味も、ソファでぐうたらする私に向けられる困ったような君の笑顔も、いつまで経っても懐かしくてたまらないんだ。
「好きだよ」
 君が生きている間には気恥ずかしくて伝えられなかった愛の言葉を、一人きりの部屋で囁いた。一件のLINE。君の遺した最期の言葉を確かめる勇気すらない意気地なしな私を、君はどう思うのかな。
 ぽろりとこぼれ落ちた涙が、スマホの画面をじわりと濡らした。

7/10/2023, 12:24:40 PM

【目が覚めると】

 カーテンの隙間から差し込む眩しい日差し。目が覚めるといつも、君の後頭部が視界いっぱいに飛び込んでくる。
「おはよう」
 君の頭を軽く撫でながら挨拶を口にすれば、君はようやく僕の心臓から身を離すのだ。
「うん、おはよう」
 まるで今が人生の絶頂期だとでも言わんばかりに幸せそうに、君はそう僕へと微笑みかける。
 怖いのだと、いつだったか君は身を震わせた。朝起きて僕の心臓が止まっていたら、そう思うと怖くて怖くて仕方がなくて、鼓動を確かめずにはいられないのだと。健康体そのものな僕に対して何でそんな不安を抱くのかはわからないけれど、それで君の気が済むのならと好きにさせていた。
 目が覚めると真っ先に、君が甘くとろけた笑顔を向けてくれる。それ以上の幸せなんて僕にはないのだから。
 閉じたカーテンをちらりと見つめ、僕はすぐに視線を君へと戻す。腕の中に抱きしめた君の温度が僕の全て。君の望むまま、もう何年も出かけていない窓の外の世界になんて、未練すらもなかった。

Next