【私の当たり前】
屋上の扉を開けて、フェンスに背中を開けて体育座りをしたクラスメイトへと近づく。無言で隣に腰を下ろせば、君は少しだけ視線を持ち上げた。
「君は、気持ち悪いって思わないの?」
絞り出された声は上ずり震えていて、まるで泣いているみたいだ。視線は一切向けないまま、私は淡々と言葉を返した。
「別に。だって君には何かがわかっていて、だから助けようとしただけなんでしょ」
昨日の放課後。危ないから離れてと切羽詰まったように君が声を張り上げた直後、すっ飛んできた野球のボールで窓ガラスが粉々に砕け散り、廊下でだべっていた生徒たちへと降り注いだらしい。まるでガラスが割れることが事前にわかっていたみたいだなんて、そんな悪意に満ちた噂が一人歩きし始めるのは早かった。
人間は、理解できないものを排除したがる。仕方のないことだ。そうわかっているから私は、私の目に映るものを必死に隠して日々を生きている。
物心ついた時からずっと、私の右眼には『この世ならざる世界』が視えていた。狸たちが夜を踊り明かし、青空を龍が悠々と散歩し、夕暮れ時には三つ足の烏が西の空を飛んでいく。それが私の当たり前だった。
だけどそれは私だけの当たり前だ。他の人たちの当たり前とは明らかに違う。仲間はずれにされないように、波風を立てないように、私は私の当たり前を隠し続けてきたし、きっとこの先も隠し続ける。
「君は偉いね」
君だって君の当たり前が他の人たちの当たり前と違うことくらい、とっくに理解していただろうに。それでも誰かを助けるために、君は自分の当たり前を人前に曝け出した。たぶん私には一生できない、愚かで優しい行為だ。
見上げた空には相変わらず、巨大な龍が浮かんでいる。その鱗の数をぼんやりと眺めながら、私は君の隣に無言で座り続けた。
【街の明かり】
大都会の高層マンションの最上階から見下ろす街は、まるでミニチュアのようだ。眼下に広がる煌々と輝く街の明かりを、多くの人々は『美しい』と称すのだろうか。だけど僕にとっては、あまりに見慣れた光景すぎて感慨すら抱けなかった。
真っ暗な部屋の中、窓の向こうに広がる明かりを指先でそっとなぞる。金も権力も名声も、僕にとっては一円の価値もない。最上級の眺望なんて称されるこんな無機質な明かりなんかより、僕が本当に欲しいものは――。
「電気もつけないで何してるの?」
不意に響いた君の声と同時に、ぱちりと室内の電気がつけられる。振り返れば、呆れたような表情で君が立っていた。くるくると君の右手の中で、僕がかつて何とはなしに渡した合鍵のが回されていた。
「何回連絡しても、スマホ見てすらくれないし。挙句の果てに誕生日にぼっちで夜景鑑賞って、さすがに寂しすぎない?」
「うるさいな。上っ面ばかりの祝辞を延々と聞かされるよりはマシなんだよ」
煽るような君の口調に、思わず言い返していた。うっかり口にしてしまった僕のどうしようもない本音を、君は気にした素振りもなく受け流す。そうしてトンッと軽い音を立てて、だだっ広いダイニングテーブルに紙箱を置いた。
「残念。留守にしてるなら、一人で食べちゃおうと思ってたのに。仕方ないから分け合おっか」
家族経営の小さな無名のケーキ屋の紙箱。僕がひそやかに気に入っている店だ。
室内が明るくなったことで、煌びやかな街の明かりは見えなくなった。窓ガラスには僕と君の姿が反射している。
「誕生日おめでとう」
微笑んだ君の口にしたお祝いの言葉に、ポッカリと空いた胸の穴が満たされたような気がした。
【七夕】
商店街の片隅に置かれた笹に、いくつもの短冊が揺れている。半月の照らす夜の入り、子供たちが嬉々として書いたらしいそれを街灯の明かりを頼りに眺めていれば、不意に見覚えのある筆跡が目に留まった。
世界中の人が幸福でありますように――あまりにも子供じみた拙い願い事が、やけに流麗で大人びた文字で記されている。幼い子供たちに混じって、高身長な君が背筋を丸めてこれを書いている姿を想像し、思わずふふっと笑い声が漏れた。
まともな両親に恵まれず、親族にも男の子はちょっとと難色を示され、行政指導で強制的に施設へと収容された後のことは、君はほとんど話してくれない。だけど逃げるように施設を出たってことはたぶん、ロクな環境じゃなかったんだろう。誰よりも傷ついて、世界の汚さを知っているくせに、馬鹿正直にこんな願い事をする君はどうしようもなく愚かで、そして。
(眩しいなぁ)
少しだけ滲んだ視界で、後ろを振り返る。焦ったような足音にはとうに気がついていた。
「ごめんっ、バスが遅れてっ……!」
「良いよ別に。たいして待ってないし」
君の腕に自分の腕をそっと絡ませる。生まれた時は一緒だったのに、いつから私たちはこんなにも違う存在になってしまったんだろう。私だけを引き取って、君に会うことを生育に悪影響だからと禁止したおばさんたちのことも、私たちをこんな環境に産んだ世界そのもののことも、私はきっと一生許せないのに。
「行こう、お兄ちゃん」
おばさんたちが実の娘の誕生会を開く今日だけは、私には自由が与えられる。年に一度、今日だけ会える優しすぎる双子の兄へと、私はなるべく明るく微笑みかけた。
【友だちの思い出】
田んぼの脇に設置された、一日三本しかバスの通らない寂れたバス停。予定時刻になっても訪れないバスにイライラとしながらスマホの時計と睨めっこをしていれば、耳慣れない大型車のエンジン音が耳朶を打った。
良かった、これなら間に合いそうだ。少しだけ軽くなった気持ちで、私は所在なさげに隣に突っ立っていた君の腕を引いた。
「ほら、乗るよ」
「う、うん」
いつもは朗らかな君が、明らさまに緊張している。ぎちぎちに強張った横顔が微笑ましくて、まなじりが下がった。
整理券を二人分とり、バスに乗り込む。ガラガラのバスの一番後ろ、窓際の席に君を押し込めて自分は隣に腰掛けた。
ゆったりと発車したバスの車窓を興味深そうに眺めている君は、どこからどう見てもただの普通の田舎の中学生だ。昔はもっと、取り繕うのがヘタクソだったのに。そう思うと自然と、私の胸に懐かしさが込み上げた。
遊び場にしていた森の奥で、突然「一緒に遊ぼうよ」と声をかけてきた子供だった。ぶかぶかのパーカーにジーンズという服装そのものは普通だったけど、子供が少ないこの村では、見覚えのない顔は不審者そのもの。挙句の果てにその子の頭には、タヌキの耳がぴょんと乗っていた。どう考えても人間じゃないその子と友だちになったのは、同年代の遊び相手がいない寂しさが怪しむ気持ちを上回ったから。それからずっと、友だちとして付き合いが続いている。
好奇心でキラキラと輝く君の瞳を眺めながら、その頭にぽんと手を置いた。かつて変化に失敗し、タヌキの耳が乗っかっていたその場所をなぞるように。
「映画館の迫力にビックリして、うっかり耳を出さないでよ?」
耳元で囁けば、君は真っ赤な顔で「わかってるよ!」と叫ぶ。昔、隠せていない耳を指摘した思い出の中の君と寸分変わらぬ反応に、私は思わず吹き出した。
【星空】
カタカタと古びた音を立てながら回転する映写機が、天井に星空を映し出している。白銀の星々が煌めくその光景は、私の一番のお気に入りだった。
大昔の人間は、本物の星空を毎日のように見上げていたらしい。地上の汚染が悪化し、地底都市が築かれるようになった現代となっては、もはやおとぎ話にしか聞こえないけれど。
「またここにいたんですか」
呆れたような声が鼓膜を揺らした。振り返れば白衣を着た君が腕を組んで立っている。
「ちょっと来てください。気になる反応が出てて」
「はいはい、今行くね」
休憩室のソファから勢いよく立ち上がる。周囲からは馬鹿にしかされなかった私のラボに、望んで訪れてくれたたった一人の後輩。汚染物質の除去なんて誰もが諦めた未来絵図を、キラキラとした目で語ってくれた子。後指を指されながら一人きりで研究を進めてきた私にとって、それがどれほどの救いだったか、君は知らないかもしれないけれど。
(いつか私が本物の星空を見る時には、君にも隣にいてほしいな)
きっとこんな紛い物の空よりも、その光景は遥かに美しい。心の中で夢想しながら、私は映写機のスイッチをパチリと落とした。