【神様だけが知っている】
高校の中庭の桜の木の下、告白をしてきたクラスメイトに「ごめんね」といつもの断り文句を口にした。教室に戻れば友人たちが、嬉々として事の顛末を尋ねてくる。断ったよとだけ答えれば、彼女たちは落胆の息を漏らした。
「またかぁ。いい加減、一回くらい誰かと付き合ってみれば良いのに。もったいなくない?」
問いかけられたセリフに、首を傾げる。もったいないかどうかで恋人を選ぶ必要性は全く理解できなかった。
「だって一番好きな相手にはできないのに、付き合ったりするのは失礼でしょ」
「真面目だよねぇ。付き合ってみたら案外好きになっちゃうってこともあるかもよ?」
「――ないよ、それは」
思ったよりも冷ややかな声が、自然と喉をついていた。脳裏によぎるのは満開の枝垂れ桜の下で微笑んだ美しいひとの姿。子供の頃からずっと、生まれ持った派手な外見のせいで爪弾きにされてきた私と、一緒にいてくれた唯一のひと。
「ええ、なにそれ? もしかして好きな人でもいるの?」
向けられた無邪気な疑問に、にっこりと笑ってみせた。これは私とあのひとだけの秘密。誰にも教えるつもりはない。
「さあ、どうだろうね」
人々が信仰を失ったことで誰からも忘れ去られ、それでも人間を慈しまずにはいられない、愚かで無垢な私の神様。私の恋は、神様だけが知っている。
【この道の先に】
黄金色の月の照らす道を君と二人、手を繋いで歩いていく。知りもしない道を、勘だけでただ闇雲に。
生まれ育った村を離れるのは人生で初めてで、怖くないと言えば嘘になる。だからぎゅっと、君と固く手を握り合うのだ。伝わってくる互いの温度で、なけなしの勇気を振り絞るために。
「ねえ。本当に良かったの?」
不意に、君は僕へと問いかけた。その歩みが躊躇うようにぴたりと止まっている。促すようにそっと、君の手を引いた。
「うん。僕は後悔してないよ」
成人もしていない世間知らずの子供が二人だけで生きていけるほど、きっと社会は甘くない。それでも君が『神様』の生贄に捧げられようとしているのを、見て見ぬフリなんてできなかった。
大人たちが信仰し、崇め奉る『神様』の座す神殿が、ただの空っぽの遺跡に過ぎないことを、僕はとっくに知っている。立ち入り禁止の注連縄を乗り越えて、幼い頃に好奇心だけで神殿へと忍び込んだけれど、大人たちの言う天罰なんて下らなかった。
この道の先に何があるのかなんて、わからない。だけどこの先に広がる可能性は、君が存在しない神様に捧げられて殺される未来よりはずっとマシなはずだ。だって君が生きて、僕の隣にいるのだから。
二人きり手を繋ぎ合って、僕たちは月影の照らす夜の道を再び歩き始めた。
【日差し】
薄暗い牢獄の格子戸から、太陽の光がうっすらと差し込む。この牢獄に囚われてから、もう何度目の夜明けだろうか。こんな場所にまで太陽が差し込むのだと思うと、乾いた笑いが喉の奥から込み上げた。
君を殺した感触が、手のひらにこびりついて離れない。罪を犯したことを後悔するつもりはないけれど、自分の罪を忘れるつもりもなかった。
何度も何度もごめんと謝りながら、殺してほしいと泣いた君の声を、夜が明けるたびに反芻する。死者のことを忘れる時は声から忘れるものだなんて、昔なにかの本で読んだから。
(ああ、馬鹿みたいだ)
もうこの世界のどこにも君はいない。それでも太陽は毎日昇り、夜は明けてしまう。君がいなくなっても、世界の構造は何一つだって変わることはない。それがひどく悔しくて、悲しくて、馬鹿馬鹿しかった。
(君のいない世界に、光なんてあるはずないのに)
柔らかな日差しから逃げるように、牢獄の一番壁際の隅で膝を抱えた。太陽の光なんて、君を殺した僕には相応しくないのだから。
頰を伝った雫が、冷たい牢獄の床を無機質に濡らした。
【窓越しに見えるのは】
窓の外にはバケツでもひっくり返したかのような大雨が降っている。打ちつける雫で滲んだ窓に、そっと指先で触れた。
突然の夏の雷雨。せっかく海へ行く約束をしていたのにと、思わず溜息を吐き出した。
雨は嫌いだ。苦い記憶は全て、雨と結びついている。父親の怒号、母親のヒステリックな泣き声。いまだに耳元で響くそれらをかき消したくて、必死に耳を塞いだ。ああ、本当に。雨なんて大嫌いだ。自分自身の脆さをこれでもかと思い知らされる。
下唇を噛み締めて窓の外を睨みつけていれば、不意に鮮やかな赤色が霞んだ視界に映った。驚くと同時に電話が鳴る。反射的に取ればひらひらと、真っ赤な傘の下の人影が手を振った。
「来ちゃった。せっかくだから家で映画でも観ようよ」
ノイズの混じった朗らかな声が耳朶を打つ。途端に心が上を向くのだから現金なものだ。君がいないと、僕はダメになってしまう。
「濡れたでしょ、早く上がりなよ」
つっけんどんな口調を装いながら、玄関の鍵を開けるために立ち上がった。
窓越しに見える君は、太陽よりも眩しい僕の光だ。なんて、恥ずかしすぎて口が裂けても言うつもりはないけれど。
【赤い糸】
訪れる人々の願いに応じて、赤い糸を切ったり結んだりする。それが僕のお役目だ。社の賽銭箱の上に座り、一心に祈りを捧げる人々から伸びた糸を操り続ける。人の切れ間に小さく息を吐き出せば、軽やかな声が後ろから降ってきた。
「相変わらず忙しそうだね」
驚いて振り返れば、隣の敷地に住まう君がニコニコと微笑んでいた。音もなく現れるのは本当にやめてほしい。心臓がドキドキと跳ねて仕方がなかった。
「まあね。君のほうは……」
「相変わらずの開店休業中。まあ、楽で良いけどね」
もともとは僕の社も君のところとどっこいどっこいの閑古鳥の鳴き具合だったのだけれど、テレビで縁結びのご利益が絶大なんて紹介されてから、僕のほうにだけ参拝客が一気に増えた。連日の混雑具合に流石に疲れてくる。
ガヤガヤと人の話し声が聞こえてきた。また次の参拝客が訪れたようだ。君も気がついたのか、少しだけ同情を滲ませて瞳を細めた。
「頑張って、応援してる」
ぽんぽんと君の手が僕の頭を優しく撫でる。その温度に、頬に熱が集まった。瞬間、君はスッと何の未練も名残もなくその姿を消してしまう。邪魔にならないようにと自身の社へと戻ったらしい。
(本当に、君にとって僕は。『弟』みたいなものなんだな)
自分の手をそっと見下ろした。そこには何の糸も見えない。唇の端をきつく噛み締めた。
(自分自身の縁も結べないなんて、縁結びの神が聞いて呆れるよ)
この手に赤い糸があれば、今すぐにでもそれを君へと結びつけるのに。何百年と降り積もらせた一方的な恋慕の情を、諦めとともに腹の底へと呑み込んだ。