いろ

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6/25/2023, 12:55:42 AM

【1年後】

 涼やかな風が丘を吹き抜ける。腕の中の純白の花束がそよそよと風に揺れた。
「久しぶり」
 整然と並んだ石の一つ、君の名の刻まれたそれの前で足を止め、そっと呼びかける。返事がないことに慣れてしまった、その事実が妙に心臓を締め付けた。
 墓石の前に腰を下ろし、昔のように軽やかに口を開く。消毒液の匂いの満ちた真白い病室で、外の世界の話をねだる君に面白おかしく自分の経験を語り聞かせたように。
 本当は君がいなくなった時、僕も死んでしまおうかと思った。だけど。
『もっと色々な場所を見て、そのお話を聞かせてね。約束だよ』
 微笑んだ君の遺言が、空っぽの僕を生かし続けている。旅をして、たくさんの土地と文化に触れて、そうして一年に一度だけこうして君に自分の目で見たものを伝えにくる。それだけが、君のいないこの世界で僕が息をする意味だった。
「また1年後に、話にくるよ」
 君の髪を撫でたのと同じように、冷たい墓石を指先でなぞる。もう君の温もりも君の声も、何一つだって思い出せない。年を重ねるにつれて、思い出せなくなることが増えていく。
 1年後の僕は、君の何を忘れてしまっているのだろう。そんなことを考えながら、ただ静かに瞳を閉じた。

6/23/2023, 10:41:38 PM

【子供の頃は】

 子供の頃は信じていた。真摯に祈りを捧げれば、神様は必ず叶えてくれる。真面目に努力を続ければ、いつか必ず報われる。そんな幼い幻想を。
「――今はもう、信じていないの?」
 カラリと音を立てて、アイスティーに浮かんだ氷が崩れる。ざわざわと少しだけ騒がしい、土曜の夕方の喫茶店。頬杖をついた君は、くるくるとストローで溶けかかった氷を混ぜた。
「信じてないよ。それが大人になるってことじゃない?」
 社会の現実を知って、世界の不平等性を受容する。年齢を重ねれば誰だってそうだろう。けれど君は攪拌されて波立つアイスティーの水面を見つめながら、淡々と口を開いた。
「これは持論だけど。祈るのも努力するのも結局、自分自身を納得させるためのものだと思うんだよね。これだけ祈ったんだからいつかは叶うはず、努力したんだからそのうち良いことがあるはずって」
「そんな未来は絶対に来ないのに期待するって、時間の無駄じゃない?」
 吐き捨てるように問いかけていた。自然と湧き上がってくる苛立ちを鎮めたくて、目の前のアイスコーヒーに手を伸ばす。長袖のTシャツの袖口がめくれて手首の包帯が見えかかったのを慌てて隠した。両利きだとこういうミスをするから嫌だ。普通ならカッターを持つ手と無意識に使う手とが一致するから、こんなやらかしはしないだろうに。
 めざとい君が気がつかないはずはないのに、君は包帯については何も触れてこなかった。ただ氷が溶けて色の薄くなってきたアイスティーを見つめながら、静かに話を続ける。
「無駄だとは思わないかな。だってその未来が来るか来ないかは、死ぬ瞬間までわからないでしょ? だったら期待しておくほうが、私は息がしやすいし、頑張ろうって思えるから」
 ああ、と。小さく息が口の端から漏れていた。伏せられた君の瞳が、アイスティーの水面を反射してキラキラと輝いている。その視線がゆっくりと持ち上がり、真っ直ぐにこちらを見据えた。
「楽観的すぎるかもしれないし、こんなの大人の考えじゃないのかもしれないけど。でもそれなら、私はずっと子供のままで良いや」
 困ったように微笑んだ君の姿が、幼い頃のそれに重なった。悪意に満ちた『悪戯』で体育倉庫に閉じ込められた君を、偶然見つけた時。それでも君は、泣くことも怒ることもなく、「見つけてくれてありがとう」と笑ったのだ。
 あの頃はずっと、君のそういうところが理解できなくて、他人と衝突することを恐れるだけの女の子だと思っていた。大嫌いで、腹立たしくて、そんなか弱い君の側にいることで仄暗い優越感に浸っていた。だけど。
(君より強い人には結局、出会わなかったな)
 しなやかで、気配りができて、明るい未来を心から信じ抜ける。誰かからの評価に依存することは決してない。そんな君が今では――。
(まぶしくて、仕方がないよ)
 弱く醜い自分自身を隠すように、Tシャツの袖をグッと引く。塞がったはずの傷跡が、ズキズキと切ない痛みを訴えた。

6/22/2023, 2:17:28 PM

【日常】

 朝起きたら真っ先に顔を洗い、歯を磨く。洋服に着替えたら身だしなみを念入りにチェックして、そうして僕は地下室の鍵をひそやかに開くのだ。
 真っ暗な階段を、一段ずつゆっくりと降りていく。暗闇の中でも迷うことなく壁のスイッチを入れれば、橙色の淡い光が天井に灯った。
「おはよう」
 溢れんばかりにベッドを埋め尽くした満開の造花の中、深い眠りについた君へと挨拶を。ピッ、ピッと規則正しく鳴る心電図の音だけが、君が生きていることを僕に教えてくれる。
 この先もずっと、君の目が開くことはないのかもしれない。それでも君の心臓が鼓動を続ける限り、僕は君のために尽くし続けよう。
 冷たい額にそっと口づけを落とし、薄暗い部屋の中で点滴を取り替え始める。それがあまりに歪な僕の日常だった。

6/21/2023, 11:27:15 AM

【好きな色】

 昔はずっと、夕焼けの色が大嫌いだった。溢れ出す血の色にも似た、毒々しい赤色。空を覆い尽くすその色を見るたびに、自分が奪ってきた命の数を思い知らされるようで吐き気がした。
 最底辺の貧民街で生まれ育った俺に、仕事を選ぶなんて権利はなかった。依頼されるままに何人も傷つけたし、何人も殺してきた。今でも自分の手が、赤く染まって見える。もうあんな仕事からは足を洗ったはずなのに。
「こら、ぼーっとしない!」
 雇われて間もない探偵事務所のソファに浅く腰掛け、自分の両手をぼんやりと眺めていれば、軽く頭を叩かれた。わざとらしく唇を尖らせた君が、俺の顔を覗き込んでいる。
「人の話はちゃんと聞いてよ。独りで喋ってるかわいそうな子になっちゃうじゃん」
 明朗な口調で文句を口にする君はきっと、俺が何を思い出していたか気がついている。察した上で何も言わずにいてくれるその優しさに、俺はいつも救われていた。
 俺を見つめる君の瞳は、鮮やかで快活な印象の赤色。君に出会って初めて、夕焼けの色を綺麗だと感じるようになった。大嫌いだった赤色も、今では少しだけ好きになることができたように思う。
『それと同じように、君自身のことも少しずつ好きになれると良いね』
 そう微笑んだ君の柔らかな笑顔を思い出しながら、俺は君から就職祝いにと贈られた真っ赤なネクタイを、そっと指先でなぞった。

6/20/2023, 1:04:33 PM

【あなたがいたから】

 じわじわと頬を汗が伝う。雲ひとつない真っ青な空が目に痛い。気持ちわ落ち着けるために、深く息を吐き出した。
 夏は嫌いだ。イヤなことばかりを思い出す。暑くて、苦しくて、悲鳴をあげても誰も助けてはくれなかった。幼い日の癒えきることのない傷痕が、私の心臓を冷たく覆い尽くしていた。
「やっぱりさ、夏って良いよね。空が綺麗で!」
 あなたの朗らかな声が、不意に鼓膜を揺らした。にっこりと無邪気に笑ったあなたは、私の顔を至近距離から覗き込む。
「ねえ、今度一緒にひまわりを見に行こうよ。有名なひまわり畑が近くにあるらしいんだ!」
 弾むような声が耳に心地良い。私の過去を知っても、『かわいそう』だと決して言わなかった、ただ一人のひと。その存在にどれだけ私が救われたか、きっとあなたは知らないのだろうけれど。
「うん、良いよ。一緒に行こう」
 気がつけば胸を埋め尽くす不快感は、すっかりとどこかへ消えていた。あなたと繋ぎ合った手の温度だけを全身で感じながら、私は静かに瞳を閉じた。
 
 ――あなたがいたから。大嫌いなこの世界で、それでも私は息をしている。

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