いろ

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【子供の頃は】

 子供の頃は信じていた。真摯に祈りを捧げれば、神様は必ず叶えてくれる。真面目に努力を続ければ、いつか必ず報われる。そんな幼い幻想を。
「――今はもう、信じていないの?」
 カラリと音を立てて、アイスティーに浮かんだ氷が崩れる。ざわざわと少しだけ騒がしい、土曜の夕方の喫茶店。頬杖をついた君は、くるくるとストローで溶けかかった氷を混ぜた。
「信じてないよ。それが大人になるってことじゃない?」
 社会の現実を知って、世界の不平等性を受容する。年齢を重ねれば誰だってそうだろう。けれど君は攪拌されて波立つアイスティーの水面を見つめながら、淡々と口を開いた。
「これは持論だけど。祈るのも努力するのも結局、自分自身を納得させるためのものだと思うんだよね。これだけ祈ったんだからいつかは叶うはず、努力したんだからそのうち良いことがあるはずって」
「そんな未来は絶対に来ないのに期待するって、時間の無駄じゃない?」
 吐き捨てるように問いかけていた。自然と湧き上がってくる苛立ちを鎮めたくて、目の前のアイスコーヒーに手を伸ばす。長袖のTシャツの袖口がめくれて手首の包帯が見えかかったのを慌てて隠した。両利きだとこういうミスをするから嫌だ。普通ならカッターを持つ手と無意識に使う手とが一致するから、こんなやらかしはしないだろうに。
 めざとい君が気がつかないはずはないのに、君は包帯については何も触れてこなかった。ただ氷が溶けて色の薄くなってきたアイスティーを見つめながら、静かに話を続ける。
「無駄だとは思わないかな。だってその未来が来るか来ないかは、死ぬ瞬間までわからないでしょ? だったら期待しておくほうが、私は息がしやすいし、頑張ろうって思えるから」
 ああ、と。小さく息が口の端から漏れていた。伏せられた君の瞳が、アイスティーの水面を反射してキラキラと輝いている。その視線がゆっくりと持ち上がり、真っ直ぐにこちらを見据えた。
「楽観的すぎるかもしれないし、こんなの大人の考えじゃないのかもしれないけど。でもそれなら、私はずっと子供のままで良いや」
 困ったように微笑んだ君の姿が、幼い頃のそれに重なった。悪意に満ちた『悪戯』で体育倉庫に閉じ込められた君を、偶然見つけた時。それでも君は、泣くことも怒ることもなく、「見つけてくれてありがとう」と笑ったのだ。
 あの頃はずっと、君のそういうところが理解できなくて、他人と衝突することを恐れるだけの女の子だと思っていた。大嫌いで、腹立たしくて、そんなか弱い君の側にいることで仄暗い優越感に浸っていた。だけど。
(君より強い人には結局、出会わなかったな)
 しなやかで、気配りができて、明るい未来を心から信じ抜ける。誰かからの評価に依存することは決してない。そんな君が今では――。
(まぶしくて、仕方がないよ)
 弱く醜い自分自身を隠すように、Tシャツの袖をグッと引く。塞がったはずの傷跡が、ズキズキと切ない痛みを訴えた。

6/23/2023, 10:41:38 PM