いろ

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6/19/2023, 12:00:28 PM

【相合傘】

 半月の浮かぶ雨夜に、川沿いの道を傘を差して一人で歩きながら、自分の左側に隙間を空ける。そうしていれば川の神様が、傘の下に現れる――それが私たちの住む地域で語り継がれる伝承だった。
「とかなんとかオシャレに言ってるけど、ようは相合傘だよね?」
 腕をなるべく持ち上げて傘を差しながら、隣に立つ君を見上げて問いかけた。と、君の手が傘の柄をそっと支えてくれる。
「僕の生まれた時代には、まだそんな言葉はなかったからね。正直、あんまり聞き慣れない言い方だな」
 艶やかな白髪が、水気を帯びて柔らかくうねっている。時代錯誤にも程がある狩衣姿も君にはよく似合っていた。顔の造形だけならせいぜい二十代後半程度にしか見えないけれど、このひとは千年以上をゆうに生きている『神様』だ。世俗的な言い回しには疎くて当然だった。
 傘の柄は完全に君の手の中へ。疲れてきていた腕を下ろし、その代わりに君の腕に自分の腕を絡ませた。なるべく距離が離れないほうが歩きやすいからと始めた習慣だったけれど、互いの歩幅の大きさを理解して自然と譲り合うようになった今となっては、ただ君の温度に少しでも触れていたいだけだ。
 雨のしとしとと降り注ぐ半月の夜、相合傘の下でしか逢うことの叶わない美しいひと。私が初めて、恋をしたひと。
 君に恋をしていると告げたなら、人間という存在を平等に愛するだけの君はきっと困ってしまうだろう。束の間の逢瀬に弾む心を押し隠し、大人びた聞き分けの良い人の子を演じて私はにっこりと微笑んだ。

6/19/2023, 1:07:28 AM

【落下】

 重力に従って、体が落ちていく。魔獣を崖下へと突き落とそうとしてうっかり自分も足を踏み外した、ただそれだけのこと。黄金色の満月が目の前に浮かんでいて、思わず手を伸ばした。
 このまま地面に叩きつけられたら、普通はさすがに死ぬのだろうか。親指と人差し指の間に収まった月を眺めながら他人事のように考えたとき、突風が僕を押し上げた。
 ぐしゃりと、魔獣の肉が潰れる音が遥か下から聞こえる。一方で僕は風に運ばれて崖の上へ。
「ほんっとにバカ……!」
 真っ青な顔をした君が、僕の体を抱きしめる。その力強さに思わず笑い声が漏れていた。
「そんなに心配しなくても、この程度じゃ死なないよ」
 わざわざ風の魔法を使ってまで、『不死者』の僕を助けなくても良かったのに。首が落ちても臓腑が潰れても、僕は死ぬことなんてできないんだから。
「死ななくても私がイヤなの。わかってよ!」
 怒鳴るような声なのに、語気が僅かに震えていた。あまりに理不尽すぎて、さらに笑いが込み上げる。わからないよ、そんなの。だってみんな僕のこと、自動修復機能のある盾くらいにしか思ってないのに。……ああ、だけど君だけは出会った時から違ったっけ。
 優しくて、正しくて、美しい女の子。生まれて初めて、君のためならこの身を投げ出しても良いかなと思えたのに、世界でただ一人君だけが僕のその行為を許さない。
 僕を抱きしめる君の温もりに身をゆだねる。君を守れるなら、僕はあのまま落ちてしまっても良かったんだよ。そんなことを言えば君が怒り狂うのがわかっているから、そんな本音は飲み込んで「ごめんね」と優しく囁いた。

6/17/2023, 12:32:16 PM

【未来】

 晴れ渡るような青空から、ハラハラと真白い雪の欠片が舞い落ちる。きっと何処かの山に積もった雪が、風に乗って飛んできているのだろう。ジッとその光景を睨むように見据えながら、石段に腰掛けた君は小さく口を開いた。
「結局、神様なんてこの世のどこにもいないんだよ」
 鳥居の下で放たれるにはあまりに不躾な言葉だった。けれど僕は何も言えない。君がどれだけ熱心に弟の幸福な未来を祈っていたか、僕だけは知っているから。
「祈ったって未来が保証されるわけじゃない。だから、もう誰かとの未来の約束はしたくない」
 ごめんねと、君は泣きそうな声で囁いた。どうかこれからもずっと、君の隣にいさせてほしい――僕のそんな告白に対する、それが君の答えだった。
 謝るのは僕のほうだ。君を困らせてごめん。正体を隠していてごめん。……君の純真な願いすら叶えてあげられない、役立たずの神様でごめん。
 神様なんて無力なものだ。僕たちにできることは、ただ人の行く末の幸福を願うことだけ。未来を変えることどころか、未来を知ることすらできやしない。
 それでも僕は、君の隣にいたい。あやふやな未来の先で、それでも君のそば近くで君の温もりを感じていたい。
「約束なんて、いらないから。そのかわり、僕が勝手に君のそばにいても怒らないでいてくれる?」
 冷えきった君の手を取って、窺うように尋ねた。深く息を吸い込んだ君が、僕のほうを見ないままで頷く。
「それは貴方の自由だから、別に怒ったりはしないよ」
 淡々と響く声は、けれどどこか柔らかい。その音色の安心感に身をゆだねて、僕はゆっくりと瞳を閉じた。

6/16/2023, 10:52:10 AM

【1年前】

 花屋なんて寄ったのは子供の頃に一度だけ、夕飯代として置かれていた千円札を握りしめて出かけた母の日以来かもしれない。慣れない場所にいる気恥ずかしさと、数えきれないほどの花の種類への戸惑いを必死に押し隠して、さも慣れているようなフリでどうにか手に入れたガーベラのミニブーケを片手に、帰り道を歩いていく。
「ただいま」
 鍵を回し家の扉を開ければ、柔らかな橙色の光がリビングを満たしていた。真っ暗じゃない家なんて最初はおっかなびっくりだったけれど、気がつけばすっかりと馴染んでしまった。
「おかえり」
 在宅で仕事をしている君は、いつもこうやって俺を出迎えてくれる。それが俺にとってどれだけ安心できるか、きっと君は知らないのだろうけれど。
「あのさ。これ、良かったらリビングに飾りたいなって思って」
 ドキドキとうるさい心臓の鼓動を必死に殺して、花束を君へと差し出した。1年前、君とルームシェアを始めた日。どうか明るい毎日になりますようにと呟きながら、君が飾ったのと同じ花。
 ぱちりと君の瞳が瞬く。一度、二度、そうして卓上に置かれたカレンダーへと視線を動かし、君は恥ずかしそうに笑った。
「そっか、ちょうど今日で1年なんだね」
 すっかり忘れてたよ、ごめんね。なんて軽く謝りながら、君は壊れ物でも扱うみたいに優しい手つきで、俺の手の中の花束を撫でた。
 君と暮らし始めて1年。トラブルもあったけど、それ以上に楽しい毎日だった。だから。
「また1年、よろしくお願いします」
「あはは、こちらこそよろしくお願いします」
 ぺこりと互いに頭を下げ合って、小さな小さな記念日を祝い合う。そんな幸せな日々が、どうかこれからもずっと続けば良い。そう願いながら、純白のガーベラの花束をぎゅっと握り込んだ。

6/15/2023, 12:29:59 PM

【好きな本】

 リビングの机の上に置かれた二冊の本。どちらから読もうかと迷い、キッチンでコーヒーを淹れている君へと向けて声を張り上げた。
「ねえ、どっちが面白かった?」
 片方は著名な賞を取った感動作と話題のヒューマン系小説、もう片方は無名の作家の処女作となる歴史ミステリー。系統が違いすぎて、判断が難しい。と、ちょうどコーヒーを淹れ終わったところだったらしい君が、マグカップを持ってリビングへと戻ってきた。
「受賞作のほうは、まあ可もなく不可もなく。僕は歴史ミステリーのほうが面白かったかな、人物描写が巧みで」
「そっか、ありがとう」
 君の評価を聞いてすぐに、ヒューマン系小説へと手を伸ばす。君の眉が少しだけ訝しむように細められた。
「え? 歴史ミステリーのほうがオススメだけど?」
「うん。私、楽しみは後に取っておく派だから」
 軽やかに頷けば、君は軽く頬をかく。いささか遠い目をしながら、私の隣に腰を下ろした。
「あー、そういえば君はそうだっけ」
 好物は後に回したい私と、好きなものから手をつける君。食の好みも私は甘党で君は辛党。洋服センスすら、モノトーン好きな私と明るめの服装を好む君とじゃ全く噛み合わない。何もかもが正反対な私たちの唯一の共通点が、本の好みだった。
 読んでいる本が一緒で、好きな作家も一緒だった。それが、君と私が話すようになったキッカケ。他の全てが真逆でも、その一点が同じなだけで、君の隣はこの世の何処よりも居心地が良いんだ。
 君の飲むコーヒーの香りを感じながら、本のページをぱらりとめくる。どんな高級レストランに行くよりも贅沢な、日曜日の午後の過ごし方だった。

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