【あいまいな空】
見上げた空からはパラパラと雨がこぼれ落ちている。それなのに空に雲はなく、明るい太陽の光が眩いほどに差し込んでいた。傘を差すべきか迷うので、晴れなのか雨なのかはっきりしてもらいたいものだ。
カバンの中の折り畳み傘を取り出すか否か、下駄箱のところで逡巡していれば。不意に後ろから涼やかな声がかけられた。
「傘ないの?」
パサリと乾いた音を立てて、君が折り畳み傘を広げる。鮮やかな空色のそれはクールな君のイメージには合わなくて、だけど何故だか妙に噛み合っているようにも見えた。
「駅まで入ってく?」
当たり前のように、君は私へと傘を傾けた。考えるよりも先に首が縦に動く。
「良いの? ありがとう」
狭い傘の下に肩を並べて、君と二人で歩き始めた。あまりにも近すぎて、自分の鼓動の音が君に届いているんじゃないかと不安になる。だけどそれよりも、君と一緒に帰れる喜びのほうがずっと大きかった。
さっきまでは突然のお天気雨に苛立っていたのに。曖昧な空模様のおかげで、君のすぐ隣にいられるのだから捨てたものじゃないななんて、現金なことを考えた。
【あじさい】
窓の外では絶え間なく雨が降り注いでいる。憂鬱な気分でそれを眺めながら手元の雑誌のページをぱらぱらとめくっていれば、スマホをいじっていたはずの君の顔がすぐ横に近づいていた。
「あのさ、今から出かけない?」
「え。嫌だけど」
反射的に返していた。そもそも私が梅雨を大嫌いなことなんて、とっくに君は知っているはずなのに。少しだけ心がモヤモヤとする。そんな私の目の前に、君のスマホが差し出された。
「これ、すごく綺麗だったから。君と一緒に見てみたいなって思ったんだ」
どうやらSNSに投稿された写真らしい。青と紫の満開の紫陽花を雨雫が美しく彩っている。あまりに幻想的な風景に、思わず息を呑んだ。
「もちろん無理にとは言わないけど……」
不安そうに眉を下げた君の様子がいじらしくて、そっとその手を取った。外では周りから頼りにされる優等生の君が、私の前でだけはいつもこうして素直な幼さを覗かせてくれる。だから私も、君となら一緒にいても良いかなって思えるんだ。
「良いよ、行こっか」
雨の日に出かけるなんて、君とじゃなかったら絶対にしないけど。だけど君と二人で傘をさして、並んで見る紫陽花はきっとこの上もなく麗しい。嬉しそうに口元を綻ばせた君の笑顔に、何故だか私の気持ちまで晴れやかになった。
【好き嫌い】
好きな食べ物は何ですか。嫌いな季節はいつですか。そんなありきたりな質問が、昔から苦手だった。質問者の期待に反しないように、周りの空気を壊さないように、そればかりをいつも考えていた僕には、自分の好き嫌いというものがよくわからなくて。にこやかに笑いながら「だいたい何でも好きだよ」と返してばかりだった。
「キミのそういうところ、ちょっとムカつくな」
不機嫌そうに呟いたのは、人生で貴方が初めてだった。困惑する僕へと、貴方は頬杖をついたままの姿勢で視線だけを流しやる。
「だって定食セットにデザートのゼリーがついていると嬉しそうだし、梅雨になって湿度が上がってくると鬱陶しそうにしているでしょ。そういうのを好き嫌いって呼ぶんだよ」
窓の外では雨が降りしきっている。水滴に濡れた窓ガラスに、貴方の顔が無機質に反射していた。
「別に真実だけを話さなきゃいけないわけじゃないし、人付き合いには適度な嘘は必要だけど。キミのそれは、あまり良くないと思うよ」
どうしてと尋ねれば、貴方はようやく僕へと向き直った。伸ばされた人差し指が、僕の胸を軽くノックする。
「自分自身の気持ちを誤魔化して、自分自身にまで嘘をつくのは。キミの心が可哀想だ」
悲しそうに眉を下げて微笑んだ貴方の表情に、心臓が僅かに収縮する。胸が痛くて、熱くて、感情がごちゃ混ぜになる。
(ああ。僕はもしかして、貴方のことが『好き』なのかな)
いつものようにニコニコと愛想笑いで「ありがとう」と貴方の忠告を受け流しながら。窓ガラスを伝い流れていく雫を横目に、そんなことを考えた。
【街】
イルミネーションのチカチカと瞬く並木道を、足早に歩いていく。吹き抜ける風が冷たくて、首のマフラーをぎゅっと巻き直した。
恋人や家族と楽しそうに語らいながら、歩道を歩いていく人々。立ち並ぶ街灯の橙色の光と白色に輝くイルミネーションとが、彼らを明るく照らしている。この時期の街の姿が、私は一番好きだった。
(でも今日からは、君がいない)
いつも隣を歩いていた君の温もりを思い出すと、枯れたと思っていたはずの涙がじわりと視界を歪めた。出張中に電話を受けて、慌てて新幹線に飛び乗って帰ってきた時にはもう、君は病院のベッドの上で息を引き取っていた。
君ひとりいなくなっても、この街の景色は何一つ変わらない。穏やかに日々は続いていく。当たり前のその事実が、妙に胸に痛かった。立ち止まってしまった私を、人々は迷惑そうに避けていく。ごめんなさい。そう謝りたくても、私の喉から漏れるのは嗚咽ばかりだった。
君のくれたマフラーに口元を埋める。その優しい温もりも、私の心を包んではくれない。ひとり取り残された街の片隅で、私はただ涙をこぼし続けた。
【やりたいこと】
施設の天井に投影された、紛い物の青空を見上げる。ぽっかりと浮かんだ雲もキラキラと輝く太陽も簡単に指先で掴めそうなのに、いくら腕を伸ばしても俺の指は空を切るばかりで。
「どうかしたの?」
涼やかな声が俺の鼓膜を揺らす。憧れに身を焦がす子供みたいな動作が恥ずかしくて、慌てて空へと伸ばしていた手を下ろした。
「何でもない」
ぶっきらぼうに返せば、ソイツは黙って俺の隣に並んだ。同じように空を見上げて、同じように手を伸ばす。
「ねえ、もし外の世界に出られたら。君は何をしてみたい?」
軽やかに問いかけたソイツの目線は、俺には一切向けられない。偽物の太陽へと伸ばされた白い手首で、俺たちを管理するブレスレットが冷たい金属音を鳴らした。
「出られねえよ、どこにも。俺たちは此処で生まれて、此処で死んでいく」
実験動物を逃がしてくれるほど、この施設の連中は無能じゃない。だけど同期の中でもとりわけ優秀で上からの評価もめでたいソイツは、何故か朗らかに微笑んでみせた。
「そうとは限らないよ。だからちゃんと考えておいて、外に出たらやりたいこと」
それだけ言い残して、ソイツは踵を返す。駆けていくその背が、俺が最後に見たソイツの姿だった。
青空を見上げる。俺の知るものよりもずっと淡く色彩の薄い、本物の青空。踏み締めた大地の色濃い土草の香り。アイツが自身の命と引き換えに俺を逃がしたから、俺はこうして外の世界で生きている。だけど。
(俺はおまえと、この空を見たかった)
じわりと滲んだ視界を、手の甲で強引にこする。俺の望みはもう二度と叶うことはないのだと、その事実が胸に痛かった。