【朝日の温もり】
身を丸めて眠っていた洞窟の中で、ふと目を覚ました。薄暗い夜の闇が、仄白く染まっている。もうすぐ夜明けだ。
身体を起こして見渡しても、貴方がいない。慌てて外に飛び出せば、ゴツゴツとした岩肌に腰掛けた貴方が驚いたように私を振り返った。ああ、良かった。ちゃんと此処にいてくれた。そのことに心の中で安堵の息を漏らした。
己の死をとうに受け入れていた貴方の手を引いて、衛兵たちから逃げることを選んだのは私だ。貴方を死なせたくない。それが私の我儘に過ぎないのだとは知っていて、それでもどうしても譲れなかった。
「ごめん、起こしたかな?」
「ううん、大丈夫だよ。貴方こそこんな早くにどうしたの?」
貴方の隣にそっと腰を下ろす。夜明け前の冷えた空気に少しだけ身を震わせれば、肩に貴方の外套がかけられた。
「ごめんね、僕のせいで」
無関係な私を巻き込んでしまったと、きっと優しい貴方は悔いている。本当にバカな人。香り高い紅茶も美しい薔薇園も、隣に貴方がいなければ私にとっては何の価値もないのに。
「謝らないで。私が貴方と一緒に生きたかった、それだけなんだから」
東の空が明るく輝く。地平線に太陽の丸みが姿を現す。紫色に染まった空が、徐々に鮮やかな橙へとその色を変えていく。
王都の屋敷に留まっていたならば、貴方と共にこんな雄大な景色を見ることはきっとなかった。だから私は絶対に、私の選択を後悔しない。
朝日の眩い光が、隣同士に並んだ私たちを照らし出す。その温もりに身を委ねながら、私は貴方の傷だらけの手をそっと包み込んだ。
【岐路】
午後7時28分、最寄駅を出発する最終電車。人気のない真っ暗なホームでその訪れを待つ君は、大きなボストンバッグを大切に抱えている。コートのポケットに両手を突っ込んで、ホームの柱に寄りかかった姿勢のまま、僕は小さく問いかけた。
「本当に行くの?」
「うん、行くよ」
一切の躊躇いのない澄んだ声だった。電車の明かりが線路の向こうに眩しく光る。ああ、もうすぐ君は旅立ってしまう。
「高校も卒業してない子供が一人で生きていくなんて、できるわけないじゃん」
「そんなの、やってみないとわからないよ」
力強く君は断言する。君のそういうところが、僕はずっと嫌いだった。
滑り込んでくる電車のライト。ギギっと僅かな金属音を立てて開くドア。
「じゃあね」
ひらりと一度だけ手を振って軽やかに電車へと乗り込む君の後ろ姿に、唇の端を噛み締めた。
(僕は君がこの町で生きる理由には、なれなかった)
僕も一緒に行くよと言えたなら。或いは僕が守るから側にいてと言えたなら。もしかしたら何かが変わっていたのかもしれないけれど。だけどこの町に未練などないと言い切った君の冷めた表情を見てしまっては、言葉なんて何も出てこなかったんだ。
君の人生に、僕は必要ない。それだけが君の真実だ。だからここが、僕たちの岐路。僕たちの辿る人生はここで別れ、もう二度と重なることはない。
電車のドアが閉まる。君は僕を見ることすらない。座席に腰掛けて手元の文庫本へと視線を落としている。
ゆっくりと動き始めた君を乗せた電車は、すぐにホームを離れ、この町から遠ざかっていく。
(さようなら、僕の初恋の人)
心の中でそっと、小さくなった電車の後ろ姿へと向けて囁いた。
【世界の終わりに君と】
次の満月が天頂に昇ったとき、この世界は終わりを迎える――そんな予言を各国の神官たちが一斉に報告したのが、二週間ほど前のこと。予言の回避のためにあらゆる手を皆が尽くしたけれど、結局対応策どころか世界が突然滅びる原因すらも、僕たちには特定することができなかった。
東の空には、僕たちを破滅へと導く満月がぽっかりと浮かんでいる。予言の時までもう、あと数時間しかない。日没までは必死に打開策を探し続けていた人々も、今はもう諦めとともに最期の瞬間を思いも思いに過ごしていた。
万が一予言が外れても明日から皆が困ることがないように、残っていた仕事は全て片付けてから、僕もそっと執務室を抜け出す。それを咎めるような者は誰もいない。皆、自分の愛する者たちと幸せなひとときを送っているのだろう。
向かう先は城の一番端の位置に設けられた獄。看守すらもいないのだから、目当ての場所まで辿り着くのは簡単だった。
小窓から差し込む月光が、岩壁に囲まれた室内を朧に照らしている。かちゃりと音を立てて錠を外せば、微動だにすらせずに瞑想を続けていた君がゆっくりと瞳を開いた。
『――なら、ここから逃げよう』
かつて僕の手を引いてくれた、小さな手の温もりを思い出す。玉座になんて座りたくないと泣いた幼い僕の頭を撫でてくれたのは君だけだった。たとえそこに、どんな思惑があったとしても。
「……自分を殺そうとした相手の前に、よく一人で顔を出せたな」
低い声で吐き捨てた君の前に、静かに腰を下ろす。憎悪をドロドロに煮溶かしたような真っ黒い君の瞳に、にこにこと薄っぺらい笑みを浮かべた僕の姿がくっきりと映り込んでいた。
「良いんだよ、どうせもうすぐ世界は終わるんだから」
君が王家を恨んでいることは知っている。持ち込んだナイフを君の前に転がした。月光を受けて、ナイフの刃が不気味に輝く。手枷をされた状態でも、君ならばこれで僕の首を掻き切れるだろう。
「満月が天頂に昇る瞬間になら、僕を殺して良いよ。世界が滅びる前に、君の手で」
君の眼差しが鋭く細められる。朗らかに笑いかけたつもりだったのに何故か、君の瞳に映る僕の微笑みは今にも泣き出しそうなほどに不恰好だった。
「だからそれまで、最後に少しだけ君の隣にいさせてくれないかな?」
たとえその理由が殺意であったとしても、世界が終わる最期の時に、僕と一緒にいたいと願ってくれる人なんて君の他にはいないんだ。
小さく息を吐き出した君が、目線で自身の左側を示す。それが了承の合図だった。君の左に座り直して、その肩に頭を預ける。すぐ隣にある君の温度が、冷えきった僕の心を少しだけ満たしてくれた。
【最悪】
雑居ビルの立ち並ぶ路地裏で、煙草を燻らせる。青空にのぼっていく煙をぼんやりと麻痺した頭で眺めていれば、不意に視界に影が差した。
最悪だ。慌てて吸いかけの煙草を靴で踏み潰したが、既に時は遅い。正面にあるその人の眉間には深い皺が刻まれていた。
勤務時間内にこんな場所でサボりの現行犯、しかも煙草まで吸っていたなんて、お堅いこの人は決して許さないだろう。怒号を覚悟したけれど、待てど暮らせどその人の声が俺の耳朶を打つことはなかった。
「えっと、先輩?」
さすがに居心地が悪くなって声をかければ、黙り込んでいたその人はゆっくりと瞳を瞬かせた。ぽろりと一筋、その眦から透明な涙がこぼれ落ちる。
咄嗟に空へと視線を移した。ああもう、本当に今日は厄日か何かなのだろうか。最悪にも程がある。
たぶんこの人は、一人きりで泣きたくて人気のないこの場所へ来たのだ。この人だって俺に弱みを握られたくはないだろうし、俺だってこの人の泣き顔を見るのなんてごめんだった。……この人にはいつだって強気でクソ真面目な恐ろしい先輩でいてもらわないと、こっちの調子が狂ってしまう。
「あーっと、今日無茶苦茶天気良いですよね」
青空に浮かんだ白い太陽を見上げながら、どうにかくだらない言葉を捻り出した。必死に頭を回して、適当な世間話を一方的に語り続ける。貴方の涙になんて気がついていませんって顔をして。
せっかく一息つきにきたはずだったのに、なんて。最悪なタイミングに心の中だけで悪態を吐いた。
【誰にも言えない秘密】
私には妹がいた。前向きで活動的で物怖じしない、私とは正反対の妹は、ある日突然失踪した。警察の懸命の捜査も虚しく、彼女が行方不明になってからもう十年が経過しようとしている。
彼女がいなくなってすぐ、周囲の村人たちの噂話から逃げるように離れた故郷の村へと久しぶりに帰ってきたのは、私自身が人生の節目を迎えるからだ。右手の薬指にはめた指輪を、木漏れ日へとそっと翳した。
森の奥にひっそりと佇む神社へと、迷うことなく足を進める。数年ぶりでも案外と道のりは覚えているものなのだなと、少しだけおかしく思った。
朽ちかけた賽銭箱へとお金を投げ入れ、錆びた鈴をガラガラと鳴らす。柏手を打ち鳴らして、静かに目を閉じた。
……私は、彼女が失踪した理由を知っていた。行方をくらませる直前、あの子は私の部屋へと訪れたから。
『あのね、お姉ちゃん。私、このひとと結婚するの』
彼女が伴ってきたのは、ひどく美しいひとだった。この世のものではないと、そう一目でわかるほどに。
『神様の世界に行くから、もう誰にも会えないんだって。だからお姉ちゃんにだけは、最後に挨拶していこうと思って』
引き留めることはできなかった。頑固な彼女は一度決めたら譲らないし、彼女を見つめる神様の横顔はこの上もない慈愛に満ちていた。
だけどまさかこの現代社会に、妹は神様のもとへ嫁ぎましたなんて言えるはずもない。誰にも告げることなく、私はこの事実を私だけの知る秘密とした。
『私はこのひとと幸せになるから。だからお姉ちゃんも、幸せになってね』
ひらりと軽く手を振った明るい笑顔が、私が見た最後のあの子の姿だ。お付き合いしていた相手にプロポーズをされて、結婚式の日取りも決めて、そうしてあの子の残したその言葉をふと思い出した。
(ねえ。私、来月に結婚するよ)
これはただの一方的な報告だ。神様の世界へと行ってしまったあの子と、話すことはできない。そうわかっていても、それでも伝えたかった。私自身の気持ちの区切りをつけるためにも。
深々と頭を下げて、踵を返す。ぼろぼろに傾いた朱塗りの鳥居の下をくぐったとき、強い風が背後から吹き抜けた。
思わず立ち止まる。いつかと同じ朗らかな声が、私の鼓膜を揺らしたような気がした。
――おめでとう、お姉ちゃん。私も今、幸せだよ。
じんわりと心が温かくなる。これは私の幻聴なのか、それとも彼女を愛した神様が少しだけ与えてくれたサービスなのか。私にはその答えはわからないけれど、胸に溢れた懐かしさだけは本物だった。