【狭い部屋】
思えば古くて狭い安アパートの一室で身を寄せ合っていた頃が、一番幸せだったような気がする。シンガーソングライター志望の僕と、画家志望の君。高校卒業と同時に田舎くさい故郷を飛び出して、縁もゆかりもない大都会の片隅でアルバイトと創作活動に無我夢中で打ち込んだ。
運が良いことに僕も君もそれなりに世間で評価されて、今では高層マンションの広い部屋をそれぞれに持てている。バイトなんてしなくても、本業の生活だけで普通に生きていけるようになった。だけど。
ソファにだらしなく身を預けて、小さく溜息をこぼした。だだっ広いリビングが妙に寂しい。産み出した歌が目まぐるしく消費されていく世界に、いまだに慣れなかった。むしゃくしゃした気持ちのままにワイングラスを勢いよく煽れば、遊びに来ていた君がさすがに目を丸くした。
「飲み過ぎじゃない?」
「なんか、無性に飲みたくて」
「……まあ、気持ちはわかるけど」
はあ、と君も大きく息を吐く。画家というのは以外とコミュニケーションも大切らしい。初対面の相手との会話が苦手な君が四苦八苦していることは、僕も以前聞いて知っていた。
肺の奥深くまで息を吸い込んだ。これから言おうとしていることを思うと、妙に緊張する。早鐘を打つ心臓を、無理矢理に抑えつけた。
「あのさ。また、一緒に住まない?」
少しだけ声がうわずってしまった。ぱちりと君の目が一度瞬く。そうして君はくすりと、安心したように微笑んだ。
「最初の時みたいな、狭い部屋が良いな」
「同じこと言おうと思ってた!」
真ん中にパーテーションを置いただけの、二人暮らしには明らかに狭い部屋。互いの寝息も聴こえてくる、プライバシーも何もあったもんじゃない環境。……僕は一人じゃないんだって、そう実感できた幸福な日々。君も同じように感じてくれていたんだと思うと、その事実が何よりも嬉しかった。
どちらからともなく、そっと手を握り合う。伝わってくる君の温度に、ひどく安心した。
【失恋】
目の前で一筋の涙を流す君の横に寄り添い、そっとその背中を撫でる。いつだって明朗で勝気な君がこんな風に泣くところ、今まで見たことがなかった。
「本当にっ……好きだったんだよっ……」
震えた声でこぼされた言葉に、ただ小さくうんと相槌を打って、君の背中に当てた手に力を込めた。
一人でも生きていけそうだからなんて月並みな理由で君を傷つけたあの人は、きっと知らないんだ。君にだって弱さがあること。君が本気で、あの人に恋していたこと。
(馬鹿だなぁ……)
そう思ったのは何も知らないあの人に対してか、あんな人に恋をした君に対してか、それとも――。
一瞬もたげたドス黒い感情に、慌てて蓋をした。僕は君の幼馴染で、君にとって一番近くて遠い友人。本音を見せることはできるけれど、恋愛対象には決してならない、一つ同じ屋根の下で生まれ育った家族と同等の位置にある存在。それ以上を望んだら、今の関係性が壊れてしまう。
「かなしいね、」
宥めるようにそっと、君の耳元で囁いた。それだけで君の両目からは堰を切ったように涙が溢れ始める。声を殺してしゃくりあげ始めた君の背中を、とんとんと同じリズムで優しく叩くことだけが、僕に許された君への慰めだった。
本当に馬鹿なのはきっと、僕にまた頼ってくれた君を見て、君の失恋を嬉しく思ってしまった僕自身なんだ。君が僕に恋してくれることなんて、一生ないと知っているのに。
【正直】
楽しそうに弾んだ声で、電話の向こうの君は今週あった出来事を話している。ニコニコと笑う君の姿が目の前に浮かぶようだった。
週に一度の電話。高校進学と同時に地元を離れ、寮生活をしている俺が寂しくないようにと、お節介な君は地元のことを丁寧に教えてくれる。両親は今週も忙しそうにしていたこと、近所の公園に居着いていた猫に子供が産まれたこと、中学校の近くにあった和菓子屋が廃業したこと。
君の涼やかな声は心地良くて、まるでヒーリング音楽みたいだ。その音色だけで、俺の心は柔らかく解けていく。
「――ねえ、ちゃんと聞いてるの?」
不意に、君の声が少しだけざらついた尖りを帯びた。君の語る内容よりも君の声そのものに心を奪われていたことは、すっかりお見通しだったらしい。顔を見ているわけでもないのに、相変わらずの鋭さだ。
「聞いてる。いつもありがと」
本当は俺は、地元のことなんてどうだって良いんだ。別にあの街が好きだったわけでも、両親と上手くやれていたわけでもない。だけど。
思い出すのは君と初めて出会った日のこと。本当の両親を失い、伯父夫婦の家に養子として引き取られた日、にっこりと笑って差し出された君の手の雪のような白さ。
「これからよろしくね」
戸惑う僕の手を、君は少し強引に掴んで力強く引いた。その温もりが優しくて、嬉しくて。気遣うように俺に話しかけてくれる戸籍上の『家族』の声に、恋をした。
――君の声を、ずっと聞いていたいんだ。そんな正直な気持ちを伝えたら、君を困らせてしまうだけだから。その衝動に蓋をして、俺は今日もホームシックな『弟』ぶって君の優しさにつけ込むのだ。
【梅雨】
昔は雨が大嫌いだった。髪の毛は纏まらないし、靴下はぐしょぐしょになるし、公共交通機関は何故か混む。良いことなんて一つもない。雨が毎日のように降り続く梅雨なんて、それはもう最悪の季節だ。
だけど今年は、少しだけ梅雨が楽しい。ステンドグラスのように透明な輝きを見せるカラフルな傘を、くるりと回した。その動きに合わせて、傘の落とす影で私の足元が華やかに彩られる。
『綺麗な傘でしょ? 君に似合うと思って』
照れ臭そうに笑いながら、君が贈ってくれた傘。誕生日でも記念日でもない、文字通りの何でもない日に渡される贈り物なんて、人生で初めての経験だった。
ぴちゃり、ぴちゃり。水音を立てながら、軽やかに駅へと歩いていく。駅ビルの前に立つ君が、傘をさした私の姿を見つけて嬉しそうに顔を綻ばせた。
髪型はちゃんと決まってないし、靴下は絞れるくらいに濡れている。これから乗るバスもきっと大混雑だ。それでも君のくれた傘をさして、君と一緒に行くデートなら、別に良いかなって思えるんだ。
「お待たせ!」
明るく声をかけて大きく手を振って、私は弾む足取りで君へと駆け寄った。
【天気の話なんてどうだっていいんだ。僕が話したいことは、】
桜の大樹の幹に背を預けて、スマホをいじる。天気アプリを起動すれば、明日の予報には太陽のマークがついていた。
「明日も晴れだって」
満開に咲き誇った桜の枝に腰かけた君を見上げて声をかければ、くすりと楽しそうな笑い声が返ってきた。
「いつも天気の話だね。そんなに晴れが好きなの?」
「まあ、晴れと雨なら晴れのほうが好きだけど」
少しだけぶっきらぼうな言い方になってしまったかもしれない。口にしてから不安になって君の様子を窺ったけれど、君はただにこにこと穏やかに微笑んでいるだけだった。
……本当は、天気の話なんてどうだって良いんだ。明日もまだ此処に君がいてくれるのか、尋ねたいことはそれだけで。だけどそれを直接問いかける度胸なんて僕にはないから、こうして遠回しに確認をする。
「晴れならまた、明日も来るよ」
「ふふっ、楽しみに待ってるね」
花が散ってしまえば、桜の花の化身たる君も消えてしまう。どうか一日でも長く、君が咲いていられますよう。不意の雨に散ってしまうことがありませんよう。心の中で祈りながら、小さな約束を今日も交わした。