【ただ、必死に走る私。何かから逃げるように】
息が切れる。心臓がバクバクとうるさい。自分がどうして走っているかもわからぬまま、ただ必死に走り続ける。何処までも走って、走って、走って――。
目が、覚めた。布団から飛び起きれば、まだ自分の心臓が小刻みに跳ね上がっている。大きく息を吸い込んで、どうにか呼吸を落ち着けた。
スマホの時計を見れば、まだ眠りについてから一時間ほどしか経っていない。最悪、と心の中だけで毒づいた。
せめて水でも飲んでから寝直そうと部屋を出る。リビングのライトに目が眩んだ。カタカタと響いていた軽快なキーボードのタッチ音が、ぴたりと止まる。
「あれ? どうしたの? 起きちゃった?」
「うん。そっちはまだ仕事?」
問いかければ「まあね」と疲れたような声が返ってきた。グッと背伸びをした君は、やけに軽やかに立ち上がる。
「紅茶でも淹れようか。美味しいお茶を飲めば、嫌な夢なんてきっと忘れられるよ」
「え。私、嫌な夢を見たなんて言ったっけ?」
慌てて自分の発言の記憶を辿る。と、君の楽しげな笑い声が鼓膜を揺らした。
「顔を見ればわかるよ。もう何年の付き合いだと思ってるの」
……何が怖かったのかも、もはやわからない夢だ。何かから逃げていたような気もするけれど、それすら明白には思い出せない。良い歳をして夢が怖くて飛び起きたなんて恥ずかしくて仕方がなくて、だけど君があまりにも優しいから、何だか怖さも恥ずかしさも全て何処かに飛んでいってしまいそうだった。
「はい、どうぞ」
目の前に差し出されたマグカップ。ありがとうと微笑んで、温かなそれを両手で受け取った。
【「ごめんね」】
兄とマトモに話したことは、数えるほどしかなかったように思う。地元の名士の家に生まれて、代々続く診療所を継ぐことを強要されて。優秀な兄は両親のお気に入りだったけれど、落ちこぼれの俺はいつも怒鳴られてばかりだった。
赤点スレスレのテスト結果を前にして、父に頬を張られたこともある。それでもあの人は何も言わなかった。まるで俺をいないもののように扱い、叱りもしないが庇いもしない。そういう冷ややかな人だった。それなのに――。
墓石の前に座り込んで、マーガレットを一輪供える。墓参りには不適切な花だとは理解していたが、あの人の友人が教えてくれたあの人の好きだったという花を、せめて供えてやりたかった。
この辺りでは一番大きな道路の横断歩道。居眠り運転のトラックから子供を庇おうとしたらしいあの人の身体から溢れていく赤い血の色。ほとんど視界も定まっていなかっただろうに、たまたま高校の帰り道に通りかかって呆然と野次馬の中に突っ立っていた俺へと、あの人は震える手を確かに伸ばした。
必死に止血を試みていたあの人の友人が、俺の存在に気がついてあの人の側へと俺を引き摺り出す。血で濡れたぬめりを帯びた手が、頬に触れた感触を忘れられない。まるで世界で一番大切なものでも愛おしむように俺の頬を撫でて、そうしてあの人は掠れた声で呟いた。
「ごめんね」
それが何に対する謝罪だったのか、俺に知る術はない。たった一言のその言葉が、あの人の最期の囁きだった。
……なあ、兄さん。ほとんど話したこともなかったけれど、俺が野球部の地方大会で逆転ホームランを決めた日、家族の中であなただけが「おめでとう」って言ってくれたんだ。「次も頑張れ」って背中を押してくれたんだ。俺はそれが、この上もなく嬉しかったんだよ。
父は俺を跡継ぎにすると決めたらしい。これまでなんて比じゃないくらいのスパルタ教育に吐きそうになる日々だったし、プロ野球選手になる夢は諦めて春からは行きたくもない都心の医大に通うことになった。
「……でも、野球は続けるから」
草野球でも何でも良い。両親の監視の目を盗んでまで、たった一度だけあなたが俺を応援してくれた。それだけで俺は、無敵の気分になれるんだ。
きっとしばらくは、墓参りもできなくなる。あの人の最期の温度を辿るように自分の頬にそっと手を添えて、そうして俺は覚悟を決めて立ち上がった。
吹き抜けた風が、墓前のマーガレットをそよそよと揺らした。
【半袖】
講義室の左奥、ドアの近くのいつもの定位置。効きすぎた冷房の風に半袖から覗く腕をさすっていれば、不意に机に影が差した。
「また羽織るもの忘れたの?」
呆れたような声とともに、僕の肩へと布がかけられる。君のお気に入りの薄手のジャケット。それをそっと、落ちないように手で抑えた。
「一限の講義があると、朝あんまり余裕なくて。うっかり忘れちゃうんだよね」
「わかってるなら前日のうちに用意しなよ。風邪引いても知らないから」
ぶっきらぼうに言いながら、君は僕の前の席へと腰を下ろす。そうそうに文庫本を開いた背中に謝罪と感謝を告げれば、気にするなとでも言うようにひらりと片手を振られた。
いつも一人きりで本を読んでいる、とっつきづらい雰囲気の孤高の人。それが同学年の連中からの君への評価だ。だけど僕は知っている。君が本当はとても優しくて気の回る人だってことを。
ねえ、君は気がついているのかな。一限に講義がある日、僕がわざと羽織りものを家に置いてきていること。君より早く大学に来て、教室に入ってきた君の目につく場所でこれ見よがしに寒がってみせていること。だってそうしたら君はいつも、僕に構ってくれるから。
君の纏っていたジャケットから、ほのかに漂う甘い香水の香り。照れくささと嬉しさの入り混じった弾む気持ちで、僕は手の中でくるりとシャーペンを回した。
【天国と地獄】
渡された脚本にあらかた目を通し終えた君は、ぱさりとそれを机へと放る。これはあまり乗り気じゃない時の反応だ。
「モチーフは地獄のオルフェなのね。……日本だと天国と地獄の名前のほうで有名だったかしら?」
「そもそもオペレッタだってことも知らない日本人のほうが多いんじゃないかな。運動会の曲ってくらいの認識で」
厳密にはオペレッタの一場面で歌われる地獄のギャロップから合唱部分を除いたものが、運動会の定番楽曲になっている。ただ、そこまで詳しいことを知る人は少ないだろう。
「あんまり好きな脚本じゃなかった?」
そう問えば君の柳眉が僅かに顰められた。白く長い人差し指が、トンッと軽く机を叩く。それだけの動作なのに、滑らかな流麗さに視線を惹きつけられた。
「個人的には原典のギリシャ神話のほうが好きね」
ギリシャ神話におけるオルフェウスは、愛する妻のために地獄まで赴き、最期まで妻への愛を貫き続けた。一方でこのギリシャ神話をオマージュした地獄のオルフェは、浮気も三角関係も何でもござれのオペレッタだ。一途な愛なんてどこにも存在しない。少女漫画の可愛らしい三角関係を「まどろっこしい」の一言で切り捨てる君の好みに合致するのは、確かにギリシャ神話のほうだろう。
「でも、個人の好き嫌いで演目を選んで良いのは、趣味の領域までよ。複数人が入り混じっての恋愛劇のほうが、一般大衆に受けることは分かってる。大衆の期待に完璧に応えてこそのプロでしょう?」
口角を不敵に持ち上げて、君は艶やかに微笑んだ。その瞳の鮮やかな輝きに眩暈がする。気がつけば君の頬に唇を寄せていた。キスを落とそうとした瞬間に、ピンッと額を弾かれる。
「今は仕事中よ、プライベートを持ち込まないでちょうだい」
冷ややかな声だった。ああ、やっぱり僕の恋人は最高にカッコいい。
「じゃあ、次の演目ではよろしくね、ウーリディス」
「ええ、こちらこそよろしく頼むわね、プリュトン」
久しぶりにガッツリと絡みの多い配役だ。プライベートの関係を持ち込まないように気を引き締め直さなければ。同じ舞台に立つ役者として挨拶のために手を差し出せば、君は力強く僕の手を握り返した。
【月に願いを】
夜空には黄金色の満月が輝いている。それを飾るように白銀の星々が天球を覆い尽くし、キラキラと煌めいていた。
私にとっては見慣れた夜の風景。だけど君から送られてきた写真には、星の光なんて全く写っていなかった。
大学進学を機に、村を出ていった君。賢く社交的で優秀な君なら、ネオンの光に照らされた都会の街でもきっと上手くやっているのだろう。
頭ではそうわかっていた。それでも願わずにはいられない。どうか元気でいてください。傷ついたり悲しんだりすることがなるべく少なくあってください。……もし可能ならば、私のことを忘れないでいてください。
(ワガママだな、私は)
故郷のことなんて思い出す暇もないほどに楽しく過ごしていてくれれば良いと願うのに、それと同じくらい私のことを思い出して寂しくなってくれれば良いと願っている。どうしようもなくズルい人間だ。
星々の見えない都会にも、月の光は届く。君のことも私のことも平等に見守ってくれているはずの艶やかな満月へと向けて、私は矛盾した願いをそっと捧げた。