【「ごめんね」】
兄とマトモに話したことは、数えるほどしかなかったように思う。地元の名士の家に生まれて、代々続く診療所を継ぐことを強要されて。優秀な兄は両親のお気に入りだったけれど、落ちこぼれの俺はいつも怒鳴られてばかりだった。
赤点スレスレのテスト結果を前にして、父に頬を張られたこともある。それでもあの人は何も言わなかった。まるで俺をいないもののように扱い、叱りもしないが庇いもしない。そういう冷ややかな人だった。それなのに――。
墓石の前に座り込んで、マーガレットを一輪供える。墓参りには不適切な花だとは理解していたが、あの人の友人が教えてくれたあの人の好きだったという花を、せめて供えてやりたかった。
この辺りでは一番大きな道路の横断歩道。居眠り運転のトラックから子供を庇おうとしたらしいあの人の身体から溢れていく赤い血の色。ほとんど視界も定まっていなかっただろうに、たまたま高校の帰り道に通りかかって呆然と野次馬の中に突っ立っていた俺へと、あの人は震える手を確かに伸ばした。
必死に止血を試みていたあの人の友人が、俺の存在に気がついてあの人の側へと俺を引き摺り出す。血で濡れたぬめりを帯びた手が、頬に触れた感触を忘れられない。まるで世界で一番大切なものでも愛おしむように俺の頬を撫でて、そうしてあの人は掠れた声で呟いた。
「ごめんね」
それが何に対する謝罪だったのか、俺に知る術はない。たった一言のその言葉が、あの人の最期の囁きだった。
……なあ、兄さん。ほとんど話したこともなかったけれど、俺が野球部の地方大会で逆転ホームランを決めた日、家族の中であなただけが「おめでとう」って言ってくれたんだ。「次も頑張れ」って背中を押してくれたんだ。俺はそれが、この上もなく嬉しかったんだよ。
父は俺を跡継ぎにすると決めたらしい。これまでなんて比じゃないくらいのスパルタ教育に吐きそうになる日々だったし、プロ野球選手になる夢は諦めて春からは行きたくもない都心の医大に通うことになった。
「……でも、野球は続けるから」
草野球でも何でも良い。両親の監視の目を盗んでまで、たった一度だけあなたが俺を応援してくれた。それだけで俺は、無敵の気分になれるんだ。
きっとしばらくは、墓参りもできなくなる。あの人の最期の温度を辿るように自分の頬にそっと手を添えて、そうして俺は覚悟を決めて立ち上がった。
吹き抜けた風が、墓前のマーガレットをそよそよと揺らした。
5/29/2023, 12:32:06 PM