【天国と地獄】
渡された脚本にあらかた目を通し終えた君は、ぱさりとそれを机へと放る。これはあまり乗り気じゃない時の反応だ。
「モチーフは地獄のオルフェなのね。……日本だと天国と地獄の名前のほうで有名だったかしら?」
「そもそもオペレッタだってことも知らない日本人のほうが多いんじゃないかな。運動会の曲ってくらいの認識で」
厳密にはオペレッタの一場面で歌われる地獄のギャロップから合唱部分を除いたものが、運動会の定番楽曲になっている。ただ、そこまで詳しいことを知る人は少ないだろう。
「あんまり好きな脚本じゃなかった?」
そう問えば君の柳眉が僅かに顰められた。白く長い人差し指が、トンッと軽く机を叩く。それだけの動作なのに、滑らかな流麗さに視線を惹きつけられた。
「個人的には原典のギリシャ神話のほうが好きね」
ギリシャ神話におけるオルフェウスは、愛する妻のために地獄まで赴き、最期まで妻への愛を貫き続けた。一方でこのギリシャ神話をオマージュした地獄のオルフェは、浮気も三角関係も何でもござれのオペレッタだ。一途な愛なんてどこにも存在しない。少女漫画の可愛らしい三角関係を「まどろっこしい」の一言で切り捨てる君の好みに合致するのは、確かにギリシャ神話のほうだろう。
「でも、個人の好き嫌いで演目を選んで良いのは、趣味の領域までよ。複数人が入り混じっての恋愛劇のほうが、一般大衆に受けることは分かってる。大衆の期待に完璧に応えてこそのプロでしょう?」
口角を不敵に持ち上げて、君は艶やかに微笑んだ。その瞳の鮮やかな輝きに眩暈がする。気がつけば君の頬に唇を寄せていた。キスを落とそうとした瞬間に、ピンッと額を弾かれる。
「今は仕事中よ、プライベートを持ち込まないでちょうだい」
冷ややかな声だった。ああ、やっぱり僕の恋人は最高にカッコいい。
「じゃあ、次の演目ではよろしくね、ウーリディス」
「ええ、こちらこそよろしく頼むわね、プリュトン」
久しぶりにガッツリと絡みの多い配役だ。プライベートの関係を持ち込まないように気を引き締め直さなければ。同じ舞台に立つ役者として挨拶のために手を差し出せば、君は力強く僕の手を握り返した。
5/28/2023, 1:07:05 AM