【いつまでも降り止まない、雨】
重たい鉛色の空から、パラパラと雨がこぼれ落ちていた。廃ビルの屋上で一人、ぼんやりとそれを見上げる。
君と二人で逃げ込んだこのビルも、周囲の開発でついに取り壊しになるらしい。生まれ育った田舎町を勢いのままに飛び出して、だけど行く当てなんて何もなくて、大都会の片隅の薄汚れた無人の廃墟で身を寄せ合った。僕たちの第二の人生は、この場所から始まったんだ。
辛いこともたくさんあった。苦しいこともたくさんあった。だけどそれでも、君と一緒だったからそれだけで幸せだった。そんな優しい思い出だった。
(でももう、それすらも辿れなくなる)
この場所が壊されてしまえば、僕に君とのよすがは残らない。携帯電話なんて持っていなかったから、写真の一枚すらも撮らなかった。ずっと一緒にいるんだから写真なんてなくても困ることはないって思い込んでいた。
……転がっていくサッカーボール。それを追って道路に飛び出した子供と、けたたましいクラクションの音。子供を庇おうとした君の身体から溢れる真っ赤な血の色。僕の記憶に焼きついた君との思い出は全てあの凄惨な光景に上書きされてしまって、借りたアパートの自室ではいつも息苦しくて仕方がない。それでもこの廃ビルに来たときだけは、君との幸福な日常を思い出して息をすることができたのに。
打ちつける雨粒が僕の頬をしとどに濡らす。コンクリートの床は乾いているのに、何故か僕の頭上から降る雨だけが止まないままだった。
【あの頃の不安だった私へ】
月明かりの照らす帰り道を足早に歩いていく。急いではいるけれど、左手に提げた紙箱を揺らすことのないように。ちょっとお高いケーキが二つ、箱の中には行儀良く並んでいた。
誰かと一緒に生きるなんて私には向いていないと、ずっと思っていた。友達も片手で足りるほど、ひとりの時間が一番好きで、飲み会の席が大嫌い。人間の最大の特徴はコミュニケーションだなんて聞くけれど、だとしたら私はあまりに人間の生活に適していないのだと、とうの昔に諦めていた。
だから君に「一緒に暮らしてみない?」って誘われた時も、本当は怖くて仕方がなかった。本当の私を知られたら君に嫌われてしまうんじゃないか、君との生活に疲れて君のことを嫌いになってしまうんじゃないか、必死に平静を取り繕いながらもそんな風に内心では怯えていた。
だけど気がつけば一年が経ち、二年が経ち、今日で君と暮らし始めてからちょうど五年になる。私たちはお互いにとっての心地良い距離を保ったまま、近づきすぎることも離れることもなく平穏に共同生活を楽しんでいた。五年目のお祝いにケーキでも買って帰ろうかなって、記念日を覚えることが大の苦手な私が自主的に思い立つくらいには、少なくとも私は今の生活を気に入っていた。
(思っていたよりもずっと、私は幸せだよ)
不安で押し潰されそうだった五年前の私へと向けて、心の中で囁いて。君と二人で暮らす家のドアに、使い込んで少しくすんだ銀色の鍵を差し込んだ。
【逃れられない呪縛】
真っ白いキャンバスに、気の向くままに色を重ねていく。今日の気分は紫色の朝焼けだ。海に昇る朝日が薄暗い空を鮮やかに染めていく、息が止まりそうなほどに美しい記憶に色濃く焼きついた風景。
正直、今までに何度筆を投げ出しそうになったかわからない。見えない視界で絵を描き続けるなんてできるわけないと、心が折れそうになったこともあった。だけど。
『ねえ、君。いつか個展を開いてよ。私、君の絵のファンになっちゃった』
ある日突然病気で視力を失って、それまで当たり前に見えていたものが見えなくなって。もうこれを最初で最後にしようと、ほとんど泣きながら病院の庭で筆を走らせた。身体は筆使いを覚えているのに、自分の描く絵の全貌がわからない。その事実に打ちのめされながらもどうにか完成した絵画を見て、朗らかな声をかけてくれた人がいた。
約束だよと澄んだ音色で囁いたその人は、今はもうどこにもいない。鼻をつくような消毒液の匂いを纏った顔も知らない彼女は、花々の香りが強くなる穏やかな春の日に、彼岸へと旅立っていった。
筆を置こうとすると、いつも彼女の声がする。だから僕はこうして今でも、必死に絵筆を握り続けてこの場所に踏み留まっている。
貴女がファンだと言ってくれたから、僕は絵から逃げ出すことができなくなってしまったんだよ。なのに責任も取らずにいなくなるなんて、あまりにも狡すぎないかな。
逃れることのできない祝福(のろい)の言葉を遺して去って逝った貴女へと、何度目になるかもわからない永遠に届くことのない恨み言を心の中で呟いて、僕はただ絵筆を走らせた。
【昨日へのさよなら、明日との出会い】
私の世界はいつだって、靄に覆われて黒く霞んでいた。幼い頃はそれが怖くて、布団の中に縮こまっていたのをよく覚えている。いくら両親に訴えても「何もないよ」と困ったように言われるばかりで、結局私は恐怖を口にすることをやめた。おかしいのは私なんだと諦めて、『見えない』フリをして今まで生きてきた。
「――随分と珍しい瞳を持っているね」
高校からの帰宅路の畦道、すれ違いざまに耳に忍び込んできた囁き声。ハッと後ろを振り向けば、ひとりの青年がそこには立っていた。……体格と声色からして、青年なのだと思う。けれどその顔は黒い靄に覆い尽くされていて、私には視認できなかった。
「せっかくの瞳なのに、波長がズレているのか。もったいないな」
どこからか飛んできた紫色の蝶に、ふと意識が逸れた。時間にすればほんのひと刹那、それなのに気がついたときには何故か青年の真っ黒い顔が寄ってきていた。
恐怖から思わず後ずさる。けれどそれより早く、彼の手のひらが私の額へと翳された。
パチリ。目の前に白い火花が弾ける。目の奥が焼けるような感覚。次の瞬間、ストーブの中に燃えるゆらめく炎のように赤い瞳が、私の視界に映り込んでいた。
「これで僕のこと、見えるんじゃない?」
やけに整った顔の青年だった。まるで作り物みたいに美しい異質な面差しに、愉快そうに持ち上がった口角だけが奇妙な人間味を滲ませる。
「貴方、何なんですか? 私に何を……」
喉が渇いて仕方がない。それでもどうにか問いかけを絞り出した。と、青年はくすりと笑みを深くする。
「少し刺激を与えて、君の瞳の波長をこちら側に調整しただけだよ。まだ慣れていないだろうけれど、明日にでもなれば君が靄だと思っていたものの本当の姿が、全て視えるようになっているはずだ」
青年の手の中に、いつのまにか和傘が握られていた。藤の花の描かれた紫色のそれをおもむろに差し、彼は悠然と誘うように微笑んだ。
「僕たちのことを知りたいのなら明日、そこの山の中腹にある社においで。……知ってしまったらもう、君は昨日までの君と同じではいられなくなるだろうけれど」
くるりと傘が回される。その刹那、青年の姿は忽然と消え失せていた。まるで今起きた全部が夢だったかのように。だけど。
(夢じゃ、ない)
道端を動く黒い靄だったはずのものに、猫にも似た姿が薄く重なって見える。あの青年の言う通り、明日になればもっとはっきりとその姿を捉えることができるのだろうか。
怖くないと言えば嘘になる。だけどそれでも、私は私の見えるものを知りたかった。知らないでいる怖さのほうが、知ることの怖さより私にとってはずっと大きい。
怯えるばかりだった幼い私へと祖母がくれたお守りを、ギュッと握りしめる。お守りの付け根についた小さな鈴がシャランと鳴る音が、やけに凛と響いた。
――これが私が『神様』たちと出会ったキッカケの日。わけのわからない黒い靄に怯えるばかりだった昨日までの自分に別れを告げて、『神様』と人間の仲介役をこなす明日からの自分への一歩を踏み出した日の、今でも鮮烈に思い出せる特別な思い出だった。
【透明な水】
ちょろちょろと音を立てる水流へと、手を差し伸べた。冷ややかな温度が心地良い。水面の向こうに僕の手の肌色が透けていて、思わず感嘆の息が漏れた。
「すごい、本当に透明だ……」
「だから言っただろ、世界には未知のものが溢れてるって」
自慢げに笑った君が、僕の肩に腕を回す。夢想家の穀潰しなんて評される君の語る『未知の世界』。僕ですらずっと面白半分のおとぎ話だと思っていたのに、まさか本当に透明な水がこの世にあるなんて。
僕たちの村で手に入る水は、泥で濁ったものばかり。飲用水にするためには面倒な浄化作業を繰り返さなければならないし、それをしたところでこんなに純度の高い透き通るような水にはならない。目の前で流れていく水のあまりの清らかさに、言葉が上手く出てこなかった。
「村の近くでも知らないものがあったんだ。世界中を探せば、見たことがないものはもっともっとある!」
君の声が鼓膜を揺らした。晴れた日の空の色のような鳥、砂漠に咲く赤い花、人間の言葉を理解する動物……君が語ってくれた物語が僕の中でキラキラと色づいていく。
日の出と共に起きて、泥水を汲みに行って、浄化作業をして。それが終われば畑を耕して日が沈めば眠る。物心ついた頃から変わることのない僕たちのルーティン。だけどああ、本当はずっと僕は思ってたんだ。こんな毎日、退屈で仕方がないって!
「……良いよ、君の計画に乗るよ」
月明かりの薄く照らす夜、君がひそやかに教えてくれた計画。この村から逃げ出して、二人きりで世界中を旅して回る……そんな胸踊る夢物語。聞かされた計画はまだまだ粗があったけど、僕ならそれを埋められるはずだ。羅針盤は君で細かなルート決めは僕、その役割分担がきっと一番適している。
「一緒に行こう、知らない世界を知るために」
僕の誘いに、君の顔がパッと輝いた。君の笑顔はまるで空に浮かんだ太陽みたいだ。明るく、力強く、いつだって僕を導いてくれる。
これが僕たちの旅の始まり。荒廃した世界を巡る、二人ぼっちの冒険譚の幕開けだった。