いろ

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【昨日へのさよなら、明日との出会い】

 私の世界はいつだって、靄に覆われて黒く霞んでいた。幼い頃はそれが怖くて、布団の中に縮こまっていたのをよく覚えている。いくら両親に訴えても「何もないよ」と困ったように言われるばかりで、結局私は恐怖を口にすることをやめた。おかしいのは私なんだと諦めて、『見えない』フリをして今まで生きてきた。
「――随分と珍しい瞳を持っているね」
 高校からの帰宅路の畦道、すれ違いざまに耳に忍び込んできた囁き声。ハッと後ろを振り向けば、ひとりの青年がそこには立っていた。……体格と声色からして、青年なのだと思う。けれどその顔は黒い靄に覆い尽くされていて、私には視認できなかった。
「せっかくの瞳なのに、波長がズレているのか。もったいないな」
 どこからか飛んできた紫色の蝶に、ふと意識が逸れた。時間にすればほんのひと刹那、それなのに気がついたときには何故か青年の真っ黒い顔が寄ってきていた。
 恐怖から思わず後ずさる。けれどそれより早く、彼の手のひらが私の額へと翳された。
 パチリ。目の前に白い火花が弾ける。目の奥が焼けるような感覚。次の瞬間、ストーブの中に燃えるゆらめく炎のように赤い瞳が、私の視界に映り込んでいた。
「これで僕のこと、見えるんじゃない?」
 やけに整った顔の青年だった。まるで作り物みたいに美しい異質な面差しに、愉快そうに持ち上がった口角だけが奇妙な人間味を滲ませる。
「貴方、何なんですか? 私に何を……」
 喉が渇いて仕方がない。それでもどうにか問いかけを絞り出した。と、青年はくすりと笑みを深くする。
「少し刺激を与えて、君の瞳の波長をこちら側に調整しただけだよ。まだ慣れていないだろうけれど、明日にでもなれば君が靄だと思っていたものの本当の姿が、全て視えるようになっているはずだ」
 青年の手の中に、いつのまにか和傘が握られていた。藤の花の描かれた紫色のそれをおもむろに差し、彼は悠然と誘うように微笑んだ。
「僕たちのことを知りたいのなら明日、そこの山の中腹にある社においで。……知ってしまったらもう、君は昨日までの君と同じではいられなくなるだろうけれど」
 くるりと傘が回される。その刹那、青年の姿は忽然と消え失せていた。まるで今起きた全部が夢だったかのように。だけど。
(夢じゃ、ない)
 道端を動く黒い靄だったはずのものに、猫にも似た姿が薄く重なって見える。あの青年の言う通り、明日になればもっとはっきりとその姿を捉えることができるのだろうか。
 怖くないと言えば嘘になる。だけどそれでも、私は私の見えるものを知りたかった。知らないでいる怖さのほうが、知ることの怖さより私にとってはずっと大きい。
 怯えるばかりだった幼い私へと祖母がくれたお守りを、ギュッと握りしめる。お守りの付け根についた小さな鈴がシャランと鳴る音が、やけに凛と響いた。

 ――これが私が『神様』たちと出会ったキッカケの日。わけのわからない黒い靄に怯えるばかりだった昨日までの自分に別れを告げて、『神様』と人間の仲介役をこなす明日からの自分への一歩を踏み出した日の、今でも鮮烈に思い出せる特別な思い出だった。

5/22/2023, 12:19:10 PM