いろ

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【あの頃の不安だった私へ】

 月明かりの照らす帰り道を足早に歩いていく。急いではいるけれど、左手に提げた紙箱を揺らすことのないように。ちょっとお高いケーキが二つ、箱の中には行儀良く並んでいた。
 誰かと一緒に生きるなんて私には向いていないと、ずっと思っていた。友達も片手で足りるほど、ひとりの時間が一番好きで、飲み会の席が大嫌い。人間の最大の特徴はコミュニケーションだなんて聞くけれど、だとしたら私はあまりに人間の生活に適していないのだと、とうの昔に諦めていた。
 だから君に「一緒に暮らしてみない?」って誘われた時も、本当は怖くて仕方がなかった。本当の私を知られたら君に嫌われてしまうんじゃないか、君との生活に疲れて君のことを嫌いになってしまうんじゃないか、必死に平静を取り繕いながらもそんな風に内心では怯えていた。
 だけど気がつけば一年が経ち、二年が経ち、今日で君と暮らし始めてからちょうど五年になる。私たちはお互いにとっての心地良い距離を保ったまま、近づきすぎることも離れることもなく平穏に共同生活を楽しんでいた。五年目のお祝いにケーキでも買って帰ろうかなって、記念日を覚えることが大の苦手な私が自主的に思い立つくらいには、少なくとも私は今の生活を気に入っていた。
(思っていたよりもずっと、私は幸せだよ)
 不安で押し潰されそうだった五年前の私へと向けて、心の中で囁いて。君と二人で暮らす家のドアに、使い込んで少しくすんだ銀色の鍵を差し込んだ。

5/24/2023, 11:55:29 AM