【理想のあなた】
憧憬とは、理解から最も遠い感情である――。その文言を目にしたのは、いつのことだったか。いまいちそれは思い出せないけれど、何故か俺の頭の中を昔一度見ただけのそのフレーズがグルグルと回っていた。
目の前で君が泣いている。いつだって明るくて、自由で、何に怯えることもなく世の中のあらゆる困難へと果敢に挑戦し続ける、俺の憧れの人が。
俺は臆病だ。親の期待や世間の考える普通の枠組みから外れることが怖くて、いつだって本心を隠し続けてきた。だからこそ俺とは正反対に、堂々と『自分』を掲げる君の在り方に憧れていたのに。
(俺はいったい、君の何を知っていたんだろう)
もう嫌だ、どうして、何でみんなわかってくれないの。嗚咽の合間にこぼれ落ちる君の悲鳴が、俺の心臓を鋭く突き刺す。立ちすくむ俺に気がついたのか、君はゆっくりと顔を上げ、そうしてひどく歪んだ微笑みを浮かべてみせた。
「ごめんね。君が思うより、強くなくて」
掠れた声だった。頬を伝う透明な涙。それでも必死に笑顔を取り繕おうとする姿に胸が締めつけられる。気がつけば君の身体を抱き寄せていた。
思っていたよりもずっと華奢で、小さな身体だった。震える肩が痛々しかった。ああ、俺の抱いた身勝手な羨望も、君を追い詰めていたのだろうか。だとしたら俺は最低だ。君を傷つけた社会の醜悪さと、何ひとつ変わらない。
「俺は、どんな君も好きだよ」
真っ直ぐに背を伸ばし、社会の理不尽と闘い続ける美しい人。一方的に作り上げた俺の中の理想の君に別れを告げて、目の前で泣きじゃくる本当の君をただ強く抱きしめた。
【突然の別れ】
仕事を終えて帰りの公共バスに飛び乗る。運転席の真後ろの席が運良く空いていた。座って一息を吐いてからスマホを取り出し、無駄とは知りつつ動画投稿サイトのアイコンを立ち上げる。
……やっぱり今日も、更新はない。一応SNSのほうも確認してはみたけれど、案の定動きはなかった。
のんびりとした声でゆるくゲームをしてくれるお気に入りの動画配信者だったのだけれど、もう三ヶ月も音沙汰がない。せっかくの疲れた日々の癒しだったのに。
そのままSNSをぼんやりと眺めていれば、チャットの通知が表示された。「ごめん、少し遅れそう」なんて言葉に続いて、汗をかいて頭を下げている猫のスタンプ。了承の意をスタンプひとつで返して、窓の外を流れる薄暗い景色へと視線を移した。
インターネットの上ではたくさんの人と関わることができて、たくさんのコンテンツを消費できる。でもそのぶん、別れだって突然だ。住所も電話番号もメールアドレスも、なんなら本当の顔すら知らないのだから、SNSの動きが止まってしまえば「応援してます」の一言すら伝えることはできない。
それが私にはほんの少し寂しくて、だからきっと私は君に依存してるんだ。子供の頃から一緒だった幼馴染。現在の住所も勤め先も実家の場所までも知っている、事故や病気さえなければ突然の別れなんて絶対に訪れない相手とのつながりに。
(ごめんね)
こんなのあまりに、君に対して不誠実だ。だって私は、君じゃなくても誰でも良かった。ただ決して私の前から突然いなくなったりしないって信じられる人なら、誰だって。
……光り輝く星空のように美しい夜景が眼下に広がる丘の上の定番デートスポット。冬の冷たい風の中、少しだけ耳を赤く染めながら真っ直ぐな瞳で「好きだよ」と告げてくれた君の表情を思い出す。本当にごめんね、こんな打算で「じゃあ付き合おっか」なんて言っちゃう人間で。
心臓がギシギシと軋みをあげる。バスの窓の向こうに尾を引く街灯の白い明かりが、やけに滲んで見えた。
【恋物語】
たとえばすれ違っていた二人が、互いの想いを確かめ合いキスを交わす物語。たとえば恋人同士の二人が、様々な障壁を乗り越えて結婚する物語。そうした物語をこそ『恋物語』と称するならば、はたして僕たちの紡いできた物語はどのように分類されるのだろうか。
「相変わらず君って、難しいことを考えるよね」
悶々と頭を悩ませる僕へと、君はあっけらかんと笑った。日曜日の早朝、住宅街の片隅でひっそりと営まれる喫茶店。開店前のこの時間、クラッシック音楽のゆったりと流れる店内に客は僕一人だけだ。君が珈琲豆をミルで引く音が、優雅なはずのクラッシックの音色をやけに現実的で素朴なものへと変えていた。
「そういう予定調和なエンディングがあるのは、それが物語だからだよ。現実の人間関係なんて、綺麗に分類できなくて当たり前でしょう?」
慣れた手つきでフィルターをセットし、君は挽いた粉をフィルターへと入れる。布でできているから紙のものよりも口当たりが滑らかになるとか何とか前に言っていたけれど、あまり理解できてはいなかった。
お湯を注いで、一度止めて。少し置いてからまたお湯を。何でそんな面倒なことしているのかは知らないが、あまりにも見慣れた手順だから、君が次に何をするのかまですっかりと想像できるようになってしまった。
煮立ったミルクを珈琲カップへと注ぎ入れて、軽くスプーンで撹拌して。ことりと涼やかな音を立てて、君は僕の前へとそれを置く。シュガーポットも忘れずに。そうしてこの世で一番愛おしいものでも眺めるみたいに、柔らかく瞳を細めて微笑んだ。
「現実なんて複雑なんだから、一緒にいたいからなんて理由で珈琲専門店に通ってくる、珈琲嫌いな男の子の恋物語があっても良いんじゃない?」
「っ、珈琲は嫌いなんじゃなくて、苦手なだけだから!」
半ば反射的に言い返しながら、角砂糖を三つカップへと放り込んで口へと運ぶ。メニュー表には存在しない、ほぼホットミルクな珈琲の優しい味が僕の口の中を満たした。
【真夜中】
仕事を終えた時にはもう、終電間際の時刻だった。へとへとの体を引きずってどうにか電車に飛び乗り、自宅への帰路につく。アイツの長期出張からの帰りくらい出迎えてやりたかったが、こちらも繁忙期でそうも言っていられなかった。
互いに仕事があって、互いより優先するものがある。その前提で一緒にいるのだから、不服に思うのは筋違いだ。わかってはいるのに心の片隅でもっとお互い大切にし合えたらなんて思ってしまうのはきっと、疲労がピークに達しているがゆえの思考のバグだった。
アパートの扉に鍵を差し込む。もうアイツは寝ているだろうからなるべく静かに。音を殺しながら開いたドアの先、あまりの明るさに一瞬目が眩んだ。
「あ、おかえり。お疲れ様」
近隣の迷惑にならないようにか極限まで落とされたテレビの音。そのせっかくの気遣いをぶち壊すような、あまりにいつも通りの声量が鼓膜を震わせた。
「ただいま……?」
煌々と輝くリビングの照明に照らされた、久しぶりに見る姿に幾度か目を瞬かせる。と、ソイツは呆れたように俺を手招きした。それにハッとして、慌てて開けっ放しになっていたドアを閉めて部屋へと上がる。
「おまえ、何でこんな時間に起きてんの」
規則正しい生活を好むコイツは、普段でも23時にはベッドに入る。出張帰りで疲れているならなおさら、もっと早くに寝入ってしまうのが常だろうに。
「それより、久しぶりの恋人におかえりは言ってくれないの?」
「……おかえり」
揶揄いが半分に不満が半分といった声色での催促に、驚愕に固まった頭の片隅からどうにかそれだけは絞り出した。くすくすと楽しそうな笑い声を漏らしたソイツは、悪戯っぽく微笑んで俺へと顔を寄せる。
「ギリギリ間に合ったね。誕生日おめでとう」
そっと額に触れた優しいキス。ちらりと写った視界の片隅で、テレビの左上に表示された時計が今日の終わりを告げた。
【愛があれば何でもできる?】
読み終わったラノベを、机の上へと軽く放る。ネットで話題の小説だからと読んでみた、ファンタジー世界のラブストーリー。最悪な家庭環境で育った女の子が、自分を愛してくれる青年と出会い、彼を愛することを知り、やがては愛の力で世界を救う。読みやすい文体とわかりやすいストーリー展開が世間に受けたのだろうとは思うけれど、私の好みの物語ではなかった。
「あれ? つまらなかったの?」
珍しく本を粗雑に扱った私の態度に、猫の写真集をめくっていた君が小さく首を傾げる。
「つまらなくはないけど。愛があれば何でもできるとか、そういう綺麗事はあんまり好きじゃないんだよね」
だって法律や道徳、伝統……個人の愛だけでは乗り越えられない障壁は絶対に社会にはあって、人間が社会的な生命体である以上そればかりは致し方がない。それなのに愛の力があれば全て叶えられるなんて豪語するのは、まるで諦めるしかなかった人たちの愛が足りていなかったみたいじゃないか。
「まあ、そっか。僕は読んでないからわからないけど、宣伝の感じだと王道恋愛ものっぽかったし。君はそういうとこ、妙に現実的だもんね」
「じゃあ君は、愛があれば何でもできると思う?」
少しだけ刺々しい問い方になってしまったかもしれない。それでも君は、たいして気にした素振りを見せなかった。ただ私を真っ直ぐに見つめて、ゆっくりと瞳を細める。
「まさか。そこまでロマンチストじゃないよ。でも――」
ふわりと、花が綻ぶように君は優しく微笑んだ。
「足りなかったあと一歩のひと押しを、愛がくれることはあると思ってるよ」
出会った頃のことを思い出す。ぼんやりと世界を俯瞰する無表情。笑い方がわからないのだと呟いた、ひどく虚ろな眼差し。……ああ、本当に。君は綺麗に笑うようになった。
そうかもしれないねと頷く代わりに、そっと君の手を握りしめた。絡めた指から伝わる穏やかな温もり。それが社会を変えることなんてできない私たちのちっぽけな愛の、確かな証明だった。