いろ

Open App
5/15/2023, 12:22:24 PM

【後悔】

 生まれ育った土地とは全く異なる、異邦の国の異邦の町。公園のフェンスに腕を預けてぼんやりと眼下の街並みを見下ろしていれば、時計台の鐘が高らかに鳴り響いた。
「ごめんね、遅くなっちゃった」
 呼び声に振り返ればバゲットのはみ出した紙袋を抱えた君が、朗らかに微笑んでいる。小さく首を横に振って、地面に置いていた自分の買ってきたぶんの紙袋を抱え上げた。
「大丈夫、帰ろう」
「うん。あのね、このバゲット安売りだったんだよ。開店記念日で普段の値段の半額になってて――」
 ニコニコと弾んだ声で話す君の言葉に、心臓がずきりと痛みを訴えた。本当だったらこんな、食費まで節約しないといけないような貧相な生活を君が送る必要はなかったのに。
 ……大企業の創業者一族のお嬢さま。誰からも愛されて、才能にも溢れていて、輝かしい成功が約束されていた女の子。当たり前に訪れるはずだった幸福な未来を、僕が彼女から奪ってしまった。
「ねえ、そんな顔しないでよ」
 少しだけ不服そうに尖った声が、僕の鼓膜を震わせる。
「何度も言ってるでしょう? 私は私の意思で、貴方と一緒に生きたいって思ったの。貴方が罪悪感を覚えるようなことじゃないわ」
 ご両親に僕と別れるようにと言われた彼女は「ならこれ以降、私のことは娘と思わないでいただいて結構です」と冷たく言い放ち、僕の手を引いた。海外のレストランに修行へ行く予定があった僕に「ちょうど良いから一緒に行くわ」と小さなスーツケースひとつでついてきて。
「だって君は、もっと幸せになれたはずだったのに」
「でもその型にはまった幸せの中に、貴方の存在はなかった。ならそれは、私にとっての幸せじゃないもの」
 右手だけで紙袋を抱え直した君は、左手をそっと僕の腕へと絡ませた。その薬指に光る安物のシルバー。僕のなけなしの給料じゃ、ブランド物の指輪すら買ってあげられなかった。
「私、後悔してないよ。この先も絶対、後悔なんてしないから」
 高らかに彼女は宣言する。凛とした眼差しが太陽の光を反射してキラキラと輝いていた。……君のその強さに、その誇り高さに、僕はどうしようもなく惹かれたんだ。君と一緒にこれからもいたいって、願ったんだ。
「うん。僕も、後悔はしてないよ」
 君と出会ったこと。君に恋をしたこと。申し訳なさは覚えるけれど、それでも間違いだったとは思わない。
 晴れた青空が眩しい。左手に荷物を持ち替え、空いた右手で君の手をそっと取る。どちらともなく絡ませた指の温度が、この世の何よりも優しく愛おしかった。

5/14/2023, 12:08:07 PM

【風に身をまかせ】

 逃げるように飛び出した屋上には、真っ青な空が広がっていた。じりじりと照りつける太陽の光が暑い。給水タンクの落とす影の下に、膝を抱えて座り込んだ。
「やっぱりここだった」
 どれだけ経ったか、不意に呆れたような声が響いた。顔を上げれば目の前に突きつけられたのは、俺の愛用の黒のトランペットケース。
「自分の相棒、置いていったら駄目でしょ」
 俺の腕の中にケースを押しつけて、ソイツは踵を返す。帰るのかと思いきや、屋上のフェンスへと体を預けて気持ちよさそうに空を仰いだ。
「うん、良い風だ」
 何を思ったかその場に座り込み、ソイツは自分のフルートケースを開く。手慣れた様子でフルートを組み立て、そうして俺へとにこりと微笑みを向けた。
「ほら、せっかくだから一緒に吹こうよ」
 何があったのとか、話を聞くよとか、そういう偽善者きどりの発言をコイツは絶対にしない。いつだって何も聞かずに、朗らかに俺を音楽の世界へと誘うのだ。
 小さく息を吸って、トランペットを取り出した。フェンスへと歩み寄れば、眩いばかりの陽光が視界に差し込む。涼やかな風が俺たちの間を颯爽と吹き抜けた。
 どちらともなく始まる、二人きりの合奏。ショパンの夜想曲第2番。満点の夜空の下で、俺たちが初めて二人で奏でたのもこの曲だった。
 どれだけ嫌なことがあっても、消えてしまいたいと思っても、コイツと二人で音を重ね合っていると全てが淡くほどけて穏やかな心地に満たされていくような気がする。初夏の風に身をゆだねながら、俺はただ一心に指を動かし息を吹き出した。

5/14/2023, 1:10:15 AM

【おうち時間でやりたいこと】

 明け方に帰宅し、コンビニで温めてきてもらった弁当をもそもそと口に運ぶ。スマホから動画投稿サイトの一番上におすすめされていた適当な動画を再生すれば、片耳だけにつけたイヤホンからペラペラとかしましい喋り声が響いた。
 ぴたりと閉まった右手のベッドルームの扉の向こうでは、同居人がぐっすりと眠っているはずだ。あと二時間もすればあいつは起きて仕事へ出かけるのだろう。互いに繁忙期が重なって、かれこれ三週間近く全く顔を合わせていなかった。
 もともとが生活費を浮かせるために始めたルームシェアだ。互いに互いの自由時間に口は出さない約束で、別に互いの生活に干渉することもない。顔を合わせないことくらい、たいした話じゃないはずなのに。
(つまらない、んだよなぁ……)
 冷蔵庫に入れられた作りすぎたという名目の食事だとか、あいつの嬉しそうな顔を想像して作る昼食用の弁当だとか。休日にどちらともなくリビングに集まって、くだらない映画を流しながらペラペラと感想を話し合う時間だとか。そういう一つ一つが、俺にとっては特別で大切だったのだと、そう思い知らされた。
 ほとんど観てもいなかった動画を止める。右手で箸を運びながら、左手でスマホの画面を操作した。あと一週間もすれば、互いに少しは休みが取れるはずだ。たっぷりと寝過ごした昼近く、ブランチを食べながら流し見るのに良さそうな映画を探しておこう。評価はそこそこ、面白くもないがつまらなくもない、そのくらいが一番盛り上がる。ここは良かった、あそこはこうしたほうが良いだなんて、ドリップコーヒーを傾けながら批評家ぶって語り合うのだ。
 少しだけ前向きに弾んだ気持ちで、サブスクに並んだ映画のネタバレなしの感想欄をタッチした。

5/13/2023, 1:22:06 AM

【子供のままで】

 七つ歳上の血の繋がらない兄は、この上もなく優秀で英明な人だった。

 ガシャンと、玻璃が砕けたようなけたたましい音が響く。それにはたと、キーボードを打つ手を止めた。
 窓の外が暗い。気がつけば日が沈んでいた。モニタの光だけがぼんやりと、闇に包まれた自室を照らしている。慌てて部屋を飛び出した。
「ごめん、兄貴! 時間気がつかなかった!」
 階段を駆け下り、煌々とライトの照らす明るいキッチンへと飛び込む。割れた皿を拾い集めていたらしい兄は、床に膝をついた体制のままで俺を見上げ、申し訳なさそうに眉を下げた。
「こっちこそごめんね。お皿割っちゃって」
「良いよ、そのくらい。後は俺がやるから、兄貴はゆっくりしてろって」
 クソ親父の要求に応え続けるこの人の心身に、疲弊が溜まっていることは知っている。せっかくの休日なのだ、夕飯の支度くらいは俺にやらせてほしかった。
「大丈夫。小説の締め切り、近いんでしょう?」
「それは、そうだけど」
 明日にでも編集から催促の電話がかかってきそうだ。今回は筆が進まなかった時期が長くて、珍しくも締め切り前日に初稿が完成していない。
「なら、大丈夫。その代わり書き上がったら、最初に読ませてね。君の作品の一番のファンは僕なんだから」
 立ち上がったその人は、くしゃりと俺の頭を撫でる。随分と上にある眼差しが、柔らかく細められていた。
 ……本当ならこんな苦労、この人はしなくて良かったはずなんだ。俺が凡骨だったから、優秀な後継ぎ欲しさに親父はお義母さんと再婚した。俺が背負うべきだったものを全て押し付けられて、それでもこの人は優しく笑うのだ。君は君の好きなことをして、自由に生きて良いんだよと。
 俺だって次の誕生日で成人する。子供の頃は怖くて仕方がなかった親父にだってもう堂々と逆らえるし、この人の負担を減らすことだって少しくらいはできるはずなのに。
 手のひらに爪が食い込むじくじくとした痛み。キッチンの照明が痛いくらいに眩しい。
 ――貴方の中の俺は、いつまでも子供のままで。埋まることのない身長差が、どうしようもなく悔しかった。

5/11/2023, 1:22:05 PM

【愛を叫ぶ。】

 雑居ビルの地下、手狭なライブハウスのステージで相棒のギターをかき鳴らす。色鮮やかに輝くサイリウムの海。観客たちの歓声。その全てが俺の血を熱く沸騰させる。
 いつもならこの勢いのまま、最後の曲に突入する。だけど今日だけは、小さく息を吸い込んで一呼吸を置いた。
 ――いつだって俺の歌を笑顔で聞いて、そうして拍手を送ってくれた人。すごいねとキラキラとした瞳で笑う君にもっともっと喜んでほしくて、消毒液のツンと香る真っ白い病室を訪ねては拙い歌を紡ぎ続けた、俺の始まりの記憶。
 ギターの弦を一つ、二つとピックで弾く。そうしてから勢いよく、曲を奏で始めた。普段この曲に込めるのは、来てくれたお客さんへの感謝。俺なんかのライブに足を運び、ファンだと言って応援してくれる人たちへと捧げるラブソング。だけどどうか、許してほしい。今日だけはこの歌を、ただ一人のために奏でることを。
 二時間以上も歌い続けた喉は、枯れかけてガラガラだ。それでも構うものか。歌え、歌え、歌え! 俺にはそれしか、俺の心を表現する方法がないのだから!
 五月の涼やかな風に攫われるように、旅立っていった美しい人。最期まで君に伝えることのできなかった愛を、全身で叫んだ。

Next