【風に身をまかせ】
逃げるように飛び出した屋上には、真っ青な空が広がっていた。じりじりと照りつける太陽の光が暑い。給水タンクの落とす影の下に、膝を抱えて座り込んだ。
「やっぱりここだった」
どれだけ経ったか、不意に呆れたような声が響いた。顔を上げれば目の前に突きつけられたのは、俺の愛用の黒のトランペットケース。
「自分の相棒、置いていったら駄目でしょ」
俺の腕の中にケースを押しつけて、ソイツは踵を返す。帰るのかと思いきや、屋上のフェンスへと体を預けて気持ちよさそうに空を仰いだ。
「うん、良い風だ」
何を思ったかその場に座り込み、ソイツは自分のフルートケースを開く。手慣れた様子でフルートを組み立て、そうして俺へとにこりと微笑みを向けた。
「ほら、せっかくだから一緒に吹こうよ」
何があったのとか、話を聞くよとか、そういう偽善者きどりの発言をコイツは絶対にしない。いつだって何も聞かずに、朗らかに俺を音楽の世界へと誘うのだ。
小さく息を吸って、トランペットを取り出した。フェンスへと歩み寄れば、眩いばかりの陽光が視界に差し込む。涼やかな風が俺たちの間を颯爽と吹き抜けた。
どちらともなく始まる、二人きりの合奏。ショパンの夜想曲第2番。満点の夜空の下で、俺たちが初めて二人で奏でたのもこの曲だった。
どれだけ嫌なことがあっても、消えてしまいたいと思っても、コイツと二人で音を重ね合っていると全てが淡くほどけて穏やかな心地に満たされていくような気がする。初夏の風に身をゆだねながら、俺はただ一心に指を動かし息を吹き出した。
5/14/2023, 12:08:07 PM