【後悔】
生まれ育った土地とは全く異なる、異邦の国の異邦の町。公園のフェンスに腕を預けてぼんやりと眼下の街並みを見下ろしていれば、時計台の鐘が高らかに鳴り響いた。
「ごめんね、遅くなっちゃった」
呼び声に振り返ればバゲットのはみ出した紙袋を抱えた君が、朗らかに微笑んでいる。小さく首を横に振って、地面に置いていた自分の買ってきたぶんの紙袋を抱え上げた。
「大丈夫、帰ろう」
「うん。あのね、このバゲット安売りだったんだよ。開店記念日で普段の値段の半額になってて――」
ニコニコと弾んだ声で話す君の言葉に、心臓がずきりと痛みを訴えた。本当だったらこんな、食費まで節約しないといけないような貧相な生活を君が送る必要はなかったのに。
……大企業の創業者一族のお嬢さま。誰からも愛されて、才能にも溢れていて、輝かしい成功が約束されていた女の子。当たり前に訪れるはずだった幸福な未来を、僕が彼女から奪ってしまった。
「ねえ、そんな顔しないでよ」
少しだけ不服そうに尖った声が、僕の鼓膜を震わせる。
「何度も言ってるでしょう? 私は私の意思で、貴方と一緒に生きたいって思ったの。貴方が罪悪感を覚えるようなことじゃないわ」
ご両親に僕と別れるようにと言われた彼女は「ならこれ以降、私のことは娘と思わないでいただいて結構です」と冷たく言い放ち、僕の手を引いた。海外のレストランに修行へ行く予定があった僕に「ちょうど良いから一緒に行くわ」と小さなスーツケースひとつでついてきて。
「だって君は、もっと幸せになれたはずだったのに」
「でもその型にはまった幸せの中に、貴方の存在はなかった。ならそれは、私にとっての幸せじゃないもの」
右手だけで紙袋を抱え直した君は、左手をそっと僕の腕へと絡ませた。その薬指に光る安物のシルバー。僕のなけなしの給料じゃ、ブランド物の指輪すら買ってあげられなかった。
「私、後悔してないよ。この先も絶対、後悔なんてしないから」
高らかに彼女は宣言する。凛とした眼差しが太陽の光を反射してキラキラと輝いていた。……君のその強さに、その誇り高さに、僕はどうしようもなく惹かれたんだ。君と一緒にこれからもいたいって、願ったんだ。
「うん。僕も、後悔はしてないよ」
君と出会ったこと。君に恋をしたこと。申し訳なさは覚えるけれど、それでも間違いだったとは思わない。
晴れた青空が眩しい。左手に荷物を持ち替え、空いた右手で君の手をそっと取る。どちらともなく絡ませた指の温度が、この世の何よりも優しく愛おしかった。
5/15/2023, 12:22:24 PM