【モンシロチョウ】
その昔、この世界にはモンシロチョウという生き物がいたらしい。雪のように真っ白な翅をひらめかせる、美しい蝶が。
薄青く光り輝く地底樹の葉が、地下迷宮を淡く照らし出す。ひらひらと舞う蝶たちの翅は、紫、青、黒、黄色と鮮やかなのに、白色だけがそこにない。自身の纏う罪の色を恥じたモンシロチョウたちはその翅を花々の染料に浸し、翅の色を変えたのだと国史には記されている。
「馬鹿馬鹿しい。そんなわけないじゃない」
僕の持ち込んだ分厚い国史をパラパラとめくっていた、この地下迷宮に棲まう『魔女』は吐き捨てるように呟いた。
「白を纏うなんて魔女の手先だなんて勝手に畏れて、片っ端から蝶の翅を染めて歩いたのはどこのどいつよ」
僕よりも年若い彼女が、そんな大昔のことを直接知っているわけがない。けれど彼女たちの一族は、子孫へと記憶を受け継ぐのだそうだ。経験なんてしていないはずの過去の惨劇を、彼女は地続きの記憶として知っている。
過去を知り未来を知る、時視(ときみ)の一族。太陽の光を受けると美しい銀色に輝く純白の髪を特徴とする彼女らは、その能力を畏れた時の権力者たちにより魔女と罵られ虐殺された。それ以来、この国では白は魔女を象徴する罪の色とされる。……本当に、意味がわからない。魔女の末裔と呼ばれる少女はこんなにも可憐で、手首なんて僕が握り込めば簡単に折れてしまいそうに細くて。人々が不吉の象徴と怯える雪の日は澄み渡った空気が心地よく、世界がキラキラと光り輝いてこの上もなく美しいのに。
手近な蝶を捕まえて、魔法をかけた。ほんの一瞬白色に染まった翅は、けれどすぐに元の黄色へと戻ってしまう。うーん、この術式でもダメなのか。
不機嫌そうに国史を読む少女の横顔を盗み見た。この子がこんな場所に閉じこもり続けなければいけない世界なんて、間違っている。「絶対に僕が守ってあげるから一緒に外に出よう」と手を差し出した僕へと、彼女は冷めた眼差しで告げた。
『とうの昔に消えてしまった、白い翅の蝶を私に見せて。そうしたら貴方と一緒に行っても良いわ』
きっと彼女は、不可能な条件を突きつけて僕を追い払ったつもりだったのだろう。でも僕にとっては、願ってもない提案だった。だって君の長い髪と同じ真っ白な翅で空を飛び交う蝶なんて、この世のものとは思えぬほどに美しいに決まってる! そんなの、見てみたいに決まっているじゃないか!
モンシロチョウを引き連れた君が、白銀の髪を風になびかせながら、太陽の光の差し込む雪原を無邪気に笑いながら歩いていく。その姿を想像して、僕は羊皮紙に再び術式の案を練り始めた。
【忘れられない、いつまでも】
嫌なことを全て忘れてしまいたい。そう願うのは人として当たり前のことだろう。失恋、失態、失望……ほんの些細な欠落で、人は容易く僕の店の扉を叩く。
忘却屋――それが僕の生業だ。新宿の片隅の薄汚れたビルの4階、『貴方の記憶、お消しします』なんて怪しげな看板一つしか出していないこんな胡散臭い店に、よくもまあ毎日のように客が訪れるものである。
非常階段の錆びた手すりに寄りかかり、ぼんやりと青空を見上げた。狭い空だ。だけどこんな汚泥を煮詰めたような場所にまで、太陽の光は隔てなく降り注ぐ。それがひどく馬鹿馬鹿しく思えた。
物心ついた時には、脳をいじくり記憶を消す方法を理解していた。嫌だなと思ったことを消して、消して、消し続けた僕の記憶は虫食いの穴だらけで、両親のことも生まれ故郷のことも何一つ思い出せない。だけどそれで、特に不便はなかった。楽しい記憶だけに埋め尽くされた僕の心は、決して傷つくことはないのだから。
『それは、傷だよ』
不意に耳の奥で、囁くような声がした。打ち消すようにポケットから取り出したライターをカチカチと鳴らすけれど、悲しげな君の声は僕の鼓膜を震わせ続ける。
『忘れてしまいたいと願う記憶がそれだけあったってことは、君の心が傷つき続けたってことなんだよ』
タバコの煙を燻らせながら、星一つ見えないネオンに飾られた明るい夜空を見上げて。君は視線を向けることもなく、ただ僕の頭をポンポンと軽く叩いた。
(こんな記憶、要らない)
血の気を失った真っ白な君の顔。病院の地下室の薄暗いベッドに浮かび上がったそれを思い出して、吐き気がした。忘れろ。忘れてしまえ。君と過ごした日々の全部。だってこれを覚えていたら、僕の心には癒えない傷が残ってしまう。
(要らない、のに……)
なのにどうして、僕は記憶を消せないのだろう。もう君がいなくなって一年が経つ。それなのにどうして僕はいつまでも、君との思い出をみっともなくなぞっては、ぐずぐずと傷を膿ませ続けているのだろう。
震える手でタバコを咥えた。君が好きだった銘柄。ライターで火をつければ、ひどく苦いだけの重たい煙が肺を満たす。いつまでも忘れられない記憶を抱きしめて、抜けるように青い空へと向けてゆっくりと息を吐き出した。
【一年後】
息を吐き出せば白い煙が、鈍色の空へと昇っていく。降り積もった雪が、世界を純白に染め上げていた。白と灰色だけで構成された、毎年見慣れた無機質な冬の世界。そこに真っ赤な椿が最後の一輪、艶やかに咲き誇っていた。
「そろそろ時間だよな」
「うん、そうだね」
俺の問いかけにソイツは美しく微笑む。出会ったのは子供の頃だった。親父に叱られて家を飛び出して、迷い込んだ人気のない神社の境内。恐ろしいほどに赤い椿の花の横にひっそりと佇んでいたソイツは、ぼろぼろと大泣きする俺の頭を撫でて宥めてくれて。そうしてそれからずっと、この縁は続いている。
「ねえ、もういい加減忘れてくれて良いんだよ? 君にだって君の付き合いや生活があるだろうし」
「良いんだよ。俺が好きでやってることだ」
少しだけ寂しげに眦を下げたソイツの肩を軽く小突いた。雪と同じくらいに白い手をそっと取れば、冷ややかな温度が伝わってくる。
「また来年、待ってる」
「……うん」
初めて会った日と何一つ変わらない姿で、ソイツは小さく頷いた。今にも泣きそうに瞳を歪めて、だけどこの上もなく幸せそうに口元を綻ばせる。
「ありがとう、またね」
――ぽとり。軽い音を立てて、椿の花が地へと落ちた。手の中の温もりが消え失せる。俺はただ一人、雪に覆われた境内に立ち尽くしていた。
地面に転がった椿の花を拾い上げた。両手で包み込んでも、そこにアイツの温度はない。再び会えるのは一年後、椿の花が咲く頃だ。
それまでまた一年、枯れないように手を入れよう。肥料を撒き、害虫を駆除し、夏になれば剪定して、次の冬にしっかりと花を咲かせるように。
椿の花をそっと、さびれた社へと横たえて。雪の降り積もった石段を一人きり歩き始めた。
【初恋の日】
初めての恋はシュワシュワと弾けてほんのりと甘い、ピーチソーダみたいな味がする。
「そうは言われても、ピーチソーダってそもそもあんまり馴染みがないんだけど」
「え、嘘?! それは絶対、人生損してるよ!」
首を捻った君の言葉に、私は思わず机を手のひらで叩いて力説した。なみなみと注がれたコーヒーの水面に、振動でぴちゃりと波が立つ。喫茶店だったら行儀が悪いと叱られただろうけれど、幸いなことに今日選ばれたのはファミレスだった。ざわざわと騒がしい店内では、多少私が大声を出したところで迷惑になることはない。
「だって売ってないでしょ、普通に。ほら、ここのメニュー見てみなって」
机の片隅に立てられたメニュー表のドリンクのページを、君はわざわざめくって見せてくれた。確かにない。ひどいなぁ、病みつきになるくらい美味しいのに。
「私は毎日でも味わえるから、君にも分けてあげられれば良いんだけど」
「いや、無理でしょ。君のそれは特異体質なんだから」
呆れたように笑う君の表情は、落ち着いついて柔らかい。少しだけ自分の鼓動が速くなったのがわかった。
――私の主食は『感情』だ。いま机の上に並んだケーキは嗜好品に過ぎなくて、感情を食べなければ餓死してしまう。食べる感情は他人のものでも自分のものでも良いのだけれど、最近はもっぱら自分の『初恋』を食べるのがお気に入りだった。
なんせ美味しいうえに栄養価も高い。しかも食べた感情は記憶から失われて『なかった』ことになるから、少し日が経ってまた新しい恋をすれば、それが次の『初恋』になるというわけだ。最強の永久機関、自給自足の極地というやつだろう。
「……なんかさぁ、君に悪意がないのはわかってるけど、君に恋をされる人は可哀想だね。勝手に恋されて、勝手に忘れ去られるんだから」
頬杖をついた君の瞳が、僅かばかり細められていた。笑っているのに笑っていない、そんな寂しげな表情だった。ずきりと心臓が締めつけられるように痛む。だけどそんな本音は隠しきって、私は朗らかに首肯してみせた。
「君がそう言うなら、そうなのかもね。私に恋をされる人はきっと、世界で一番可哀想だ」
いただきますと手を合わせて、パクリと感情を飲み込んだ。口の中でパチパチと炭酸が弾ける。ああ、今日は少しだけほろ苦い大人の甘さだ。
そうして私は今日も忘れ去る。君の優しい笑顔に鼓動が速くなった理由も、可哀想な君へと抱いた罪悪感も、何もかもを失くして、まっさらな感情で君へと屈託なく笑いかけるのだ。
毎日君に初めての恋をして、毎日それを食らって消費して。そうしてきっと明日もまた、私は君に初めての恋をする。
【明日世界がなくなるとしたら、何を願おう】
泥に汚れ傷のついた、数世代前の音楽プレーヤー。森の中に捨てられていたそれを拾い上げる。なんとはなしに再生ボタンを押してみれば、どうやらまだ充電が残っていたらしい。少し前に流行ったラブソングが、そこそこの音量でスピーカーから流れ始めた。
もしも明日世界がなくなるとしたら。そんな仮定のもとで、初恋の人への愛を歌う可憐な女性の声。慌てて再生を停めたけれど、既に時は遅かった。
「急にどうしたんだい? 世界の終わりに興味でも芽生えたのかな?」
どこか揶揄うような色を滲ませた軽やかな声が、俺の鼓膜を震わせた。ああ、もう。地獄耳にもほどがある。
「そんなんじゃない」
「なんだ。てっきり人生に嫌気でも差して、世界戦争でも起こす気になったのかと」
開いた扇に隠された口元が、明らかににやついていた。小さく舌を打ち、その肩を軽く小突く。
「曲がりなりにも神サマが、悪事を煽ってるんじゃねえよ」
「神なんてしょせん、人間の願いを叶えるだけのただの機構さ。人間の定義する善も悪も、神には無関係だ。願いの結果の責を負うのは、いつだって人間だけなんだよ」
透き通るように白い、温度のない指先が俺の頬に触れる。細められた赤い瞳が、まるでヨーロッパの童話に出てくる悪魔のように、俺を奈落へと誘うのだ。
「君が神に願うならば、世界くらい明日にでも滅ぼしてあげよう。その罪を閻魔大王がどう裁くのかは知らないけれどね」
「そんなこと願ってねえよ、馬鹿」
頬に添えられた手を払い除けた。世界中を巻き込んで自殺する気はさらさらないし、そもそも俺は人生に絶望したりも別にしていない。仕事は順調だし、対人関係も良好。正直、この悪魔まがいの神との腐れ縁以外には、とりたてて問題のない順風満帆な毎日を送っていた。
「相変わらず面白みのない」
整った面差しが、やけに空虚に俺を見つめていた。心底つまらなさそうな態度に、やれやれと息を吐く。この悠然とした神の一柱は、妙なところで子供っぽいのだ。
「願い事をしてほしいならせめて、世界が滅ぶなら何を願うかを聞いてくれ」
「なんだ。世界が滅ぶとしたら叶えてほしい願いくらいは、朴念仁の君にもあるのかい?」
夕焼け空を映したような真紅の瞳が、きらりと輝いた。ああもう本当に、なんだってこんな面倒なやつとの縁を切ることがいまだにできないのか。……こいつの社がある森へとわざわざ毎週末訪れているのは俺自身だという事実は、あまり認めたくはなかった。
「――俺以外の誰の願いも叶えるな。それだけだ」
ぱちりと目の前の瞳が瞬いた。不思議そうに首を傾げるそいつから、故意に目を逸らす。
こうして俺と話していたって社に参拝客が訪れれば、こいつは来訪者の願いに耳を傾ける。だったら最後の一日くらいはおまえと二人きり、誰にも邪魔されずに過ごしてみたいだなんて。あまりに恥ずかしい願い事かもしれないけれど。
手の中の音楽プレーヤーの冷たさが、火照った手のひらにやけに心地よかった。