【君と出逢ってから、私は・・・】
幼い頃からずっと、神様と崇められて生きてきた。洞窟の奥の薄暗い祭壇に鎖で繋がれて、訪れる村人たちの願い事を神秘の力で叶えてあげる。そうすれば供物にと、水と食事とが分け与えられる。
私の置かれた環境が、世間一般から見れば間違いであることは知っていた。風を操ればいくらでも、外の世界の知識は耳に入ってくる。だけどそれでも、別に良かった。私がここで『神様』をしていれば、同じ力を持った弟は平穏無事に村の中で生きられる。少なくともあの子が大人になって、この村を出ても生活していけるくらいに成長するまでは、甘んじてこの状況を受け入れるつもりだった。
「こんなのおかしいよ……! 絶対俺が、ここから君を出してあげるから!」
だけど村長の息子の少年は、そう私の手を取った。弟のことも私のことも、全部絶対に助けてみせると、無垢な瞳で宣言した。ああ、なんて馬鹿馬鹿しいんだろう。この村の大人は誰一人として、私たちの自由を許さない。私たちの持つ力を利用して利益を貪ることしか考えていない。子供の浅知恵なんかで、逃げきれるわけがないのに。
目の前で村長がにたにたと笑っている。神様、どうか我々の願いをお聞き入れください。形ばかり頭を下げるその態度に、無性に苛立ちが募って仕方がなかった。
ふざけるな。腹が立つ。消えてしまえ。沸き立つ感情に呼応するように火花が弾けかけたのを、無理矢理に抑えつける。全部、全部、燃え散らしてしまえたら、どれだけすっきりするだろうか。
(君のせいだよ、馬鹿)
私たちなんかに手を伸ばしてくれる人もいるのだと、知ってしまった。何の打算もなく私たちのために怒ってくれる人の存在を、知ってしまった。それが私にとって、どれほど甘い毒だったか!
荒れ狂う情動を奥歯に噛み締めて、私は持ち込まれた願い事を『神様』として叶えるために、いつも通り神秘の力を行使した。
――君と出逢ってから私は、理不尽を憎むようになりました。とっくに殺し尽くしたはずのこんな感情、忘れたままでいたかったのに。
【大地に寝転び雲が流れる・・・目を閉じると浮かんできたのはどんなお話?】
見上げた青空には、真白い雲が悠々自適に流れている。その自由さが羨ましくて、僕は小さく溜息を吐いた。
「何か困り事? 私で良ければ話くらいは聞くよ?」
「勝手にひとの神域に入り込むなよ」
僕の隣に社を構える文字通りの隣人が、地面に寝転がった僕を見下ろしていた。横髪をそっと指先で耳にかける、たったそれだけの仕草がやけにたおやかで美しい少女の姿を象った一柱へと、半ば反射的に文句を返す。
「良いじゃない。お隣さんかつご利益の近い神同士、仲良くしましょうよ」
「僕が結ぶのはこの世のありとあらゆる縁であって、何も色恋沙汰に特化してるわけじゃないんだけど」
それなのに近年僕の元へと持ち込まれる願いは、恋愛相談ばっかりだ。友達との縁、仕事との縁、願ってさえくれれば何だって切って結んであげるのに。
昨日の一件と今日の三件、持ち込まれた泥沼の四角関係を思い出すと頭が痛くて仕方がない。視界に映り続ける四本の赤い糸が、せっかくの晴れ渡る空の紺碧を無粋に彩っていた。
「またどの糸を結ぶかで悩んでるの? もういっそ、目でも瞑って適当に結んでみたら? 運を天に任せるってやつ」
「それ、人間が神頼みする時に言う台詞だろ。僕らが言ってどうするの」
「だっていくら考えても決められないんでしょう? だったらもう、勢いで決めちゃいなよ。案外なんとかなるって」
はたしてそんな雑で良いのだろうか。だけど確かに、全く決められないのも事実だ。躊躇いながらも目を瞑った。太陽の光が網膜に透けて世界が赤くなり、どこに糸があるのかなんて判別できない。半ばやけくそ気味に手を動かし、感覚だけで糸と糸を2セット繋ぎ合わせた。
「あ、待って。面白すぎ。私の仕事減ったんだけど」
「え? 何それ、どういうこと?」
鼓膜を震わせた忍び笑いに、慌てて目を開いた。……縁はちゃんと結ばれている。でも確かにこれだと、彼女の出番はなさそうだ。
「うわ、どうしよう。切って繋ぎ直したほうが良いかな……」
「別にこのままで良いんじゃない? 君の仕事は縁を結ぶこと。結ばれた縁がどんな関係性のものなのか、どういう感情に育つのかは、君の管轄外でしょう」
何も恋愛だけが、縁の全てじゃないんだから。――恋愛の末に結ばれた夫婦へと子供を授けることを生業とするはずの彼女は、けれどそう涼やかな声で付け足した。
「友情で終わるならそれでも良し、恋情に発展するならそれもまた良し。どうしても子供が欲しいって祈りにきたら、私がどうにかしてあげるわ」
堂々と胸を張る彼女が頼もしい。うっかり男性同士と女性同士で結んでしまった糸を眺め、僕はもう一度瞳を閉じた。
赤く染まった焼けるような世界。晴天の日に寝転がって目を瞑ると、視界に映り込む糸が全く見えなくなる。ほんのひとときだけ自分の役目を忘れられるようで、この瞬間がたまらなく好きだった。
僕が縁を結んだ彼らは、どんな物語をこの先紡いでいくのだろう。普段だと胃が痛くて仕方がないのだけれど、彼女の言葉が気を軽くしてくれたのか、今日だけは妙に穏やかな気持ちでこれからの彼らの未来を夢想できた。……それは彼らが紡ぐ人生、何が起きても僕の責任ではないのだと開き直って。
ふと額に優しい温度が触れた。彼女の手のひらが僕の頭をそっと撫でている。
「おやすみなさい、良い夢を」
とびきり甘い、まるで彼女の神域に漂う生まれる前の子供たちの魂へと向けられるのと同じような柔らかな声が、僕を眠りの国へと誘っていった。
【「ありがとう」そんな言葉を伝えたかった。その人のことを思い浮かべて、言葉を綴ってみて。】
――ねえ、知っている? 伝えたかった「ありがとう」を綴った手紙を笹舟に乗せて川に流すとね、優しい飛脚さまが黄泉の国までその手紙を届けてくれるんだって。
膝を濡らす水の温度が冷たい。川に流される笹舟を、そっと両手で拾い上げる。中に横たわった宛先のない手紙を、手の中へと取り出した。
「変わり者だよね、君は。暇つぶしにしても趣味が悪い」
森の木の枝に胡座をかき、膝の上に肘を置いて頬杖をついた双子の片割れの呆れたような声色に、思わず微苦笑が口元に浮かぶ。
「良いだろう、別に。誰に迷惑をかけているわけでもない、むしろ社会貢献なんだから」
言い返しながら手紙を開けば、パサリと乾いた音がやけに大きく響いた。
「知っているかい? 世間様が君を何と持て囃しているか」
嘲るような君の声が鼓膜をくすぐる。それを聞き流し、僕はただ手紙に踊る文字を目で追った。
どうやら送り主は妙齢の女性のようだ。自分を置いて亡くなった旦那さんへの、穏やかで幸福な日々への感謝の言葉が、整った文字で綴られている。彼女がどんな人生を辿り、誰を愛し、大切な人を失って何を感じたか、その全てが短い手紙の中に詰め込まれていた。
ああ、やっぱり興味深い。笹舟に乗って届く手紙はどれも『亡くなった大切な人への感謝』という共通の感情が綴られているのに、送り主によってその色は全く異なる。こうして手紙を読んでその差異を知ることが、僕の数少ない趣味の一つだった。
ざぶざぶと音を立てて、川の中を岸辺へと歩く。音もなく姿を現した白狐へと手紙を差し出せば、狐はそれを器用に咥えて森の奥へとしなやかに駆けていった。
「――『黄泉の国への飛脚さま』だってさ。笑える話だ」
告げる君の声は冷ややかだ。身軽に地面へと降り立った君と肩を並べて、僕たちも狐の後を追うように森の奥の社へと歩き始めた。
「あながち間違った噂ではないないだろう? 実際、運良く僕に拾われたいくつかは、神のもとへ届くんだから」
「動機が最悪過ぎるのさ。君と血が繋がっているだなんて、こちらの品位まで疑われてしまう」
吐き捨てるように放たれたそれが、決して本心でないことはとうに知っていた。だって僕には君しかいなくて、君には僕しかいない。二人きりで手を取り合って、気まぐれな神様に繋いでもらった命を分け合って今日を生きている。
双子は忌み子だなんて言われて、幼い頃に森の中へと捨てられた。僕たちに石を投げた人間たちに、情なんて欠片もない。それでも人間という存在に興味だけはあるのが僕で、透明な無関心を貫くのが君だった。
きっと世間は、死者への感謝の手紙を届ける僕のことを優しいだなんて評すのだろう。本当に優しいのは人間の感情を悪戯に弄ぶことのない君のほうなのに、そんな簡単なことにも気がつかぬまま。
吹き抜ける清涼な風が森の木々を揺らす。その心地よさに微睡むように、僕はそっと瞳を閉じた。
【優しくしないで】
土曜の昼下がりの喫茶店、歩道に面した窓際のテーブル席。差し込む太陽の光が、向かいに座った君の栗色の髪を柔らかに輝かせる。
「元気ないね。困ったことがあるなら聞くよ?」
朗らかに微笑んで俺を促す君の右手の薬指を飾る、透き通るようなダイヤモンドの煌めきから目を逸らすように、窓ガラスの向こうへと視線を移した。
「別に、何でもない」
行き交う人々を眺めながら、なるべく平坦に返したつもりだった。けれど想定外にぶっきらぼうに自分の声が響く。せっかくの心配を突っぱねた俺のことを、怒ってくれたって良いのに。なのに君はいつだって、ただ慈しむように笑うだけなのだ。
「そっか。もし話したいなって思ったら、いつでも話してくれて良いからね」
いつまで経っても俺のことを弟みたいに扱って、対等な立場になんて置いてくれない。自分の思考に、自分の胸が刺すような痛みを訴えた。
「平気だって。というか、そんな暇あるなら彼氏さんとデート行けよ」
それでもどうにか、呆れたような声を取り繕った。テーブルの上、アイスコーヒーのグラスを伝う雫が、まるで俺の代わりに泣いているみたいだ。
君からは見えない膝の上で、拳をギュッと握りしめた。頼むから、これ以上優しくしないでくれ。俺に構わないでくれ。惨めさと独占欲とで、俺が君をグシャグシャに傷つけてしまわないように。
三つ歳上の幼馴染は、俺の醜い恋情になんてこれっぽっちも気がつかぬまま、幼い子供を見守るような眼差しで美しく微笑んでいた。
【カラフル】
中学の入学式の初日、私たちに配られたのは幾何学模様の印刷された一枚の塗り絵と、12色の色鉛筆だった。
自分の好きな色で、好きなように塗ってみてください。それを教室の後ろの壁に貼って、カラフルで素敵な絵にしましょう。そんなことを先生から言われて、ホームルームの時間に塗り絵を完成させた。青、緑、黄色。自分が好きだなと思った色を手当たり次第に配置して。
そうして放課後、クラス全員分の塗り絵が貼られた掲示板を見て、私は小さく首を傾げた。
一枚だけ、色のない塗り絵がある。ほとんどの面積が白のままで、ところどころに濃さの違う黒色が配置されているだけ。シンプルで簡素で、カラフルなんて言葉とは縁遠いはずのそれに、何故だか心が惹きつけられて仕方がなかった。
気がつけば教室からは人がいなくなっていた。だけど一人だけ、満足そうにその絵を眺めている子がいる。ああ、確か白と黒の塗り絵の片隅に書かれた名前の子だ。
「ねえ、どうして色を使わなかったの?」
思わず問いかけていた。ちらりと私へ視線を向けたその子は、不思議そうに首を傾げる。
「色なら使ったよ」
少しだけ骨張った指先が、真っ直ぐに絵を指し示した。
「白も黒も灰色も、全部『色』だろう? カラフルの仲間はずれにしたら、可哀想だ」
涼やかに告げる君の透き通るような声を、私は今でも覚えている。私の生きる狭く小さな世界、私の抱く常識、その全てを軽やかに壊していった声だった。
そんなことを思い返しながら、目の前に飾られた絵画を見つめる。白と黒で描かれた水墨画。雄大に翼を広げた無彩色の鷹の瞳だけが、鮮やかな七色に光り輝いていた。
(やっぱり君の絵が、好きだな)
世界中から評価される画家になった君は遥か遠い人で、直接この言葉を届ける術は、今の私にはないけれど。
ほんの少しの寂しさと、それ以上の多幸感を胸に、私はただじっと『カラフル』と名付けられたその絵を眺め続けた。