【楽園】
「そういえば先輩は、この世の楽園って信じます?」
椅子の背もたれに行儀悪く寄りかかり、スマホゲームをぴこぴこと遊びながら。ソイツは心底つまらなそうな声色で俺へと問いを投げかけた。
「くだらないな」
新聞記事から目を離すことなく呟けば、「ですよね」と軽薄な同意が返ってくる。
「聞いてくださいよ。オレ昨日帰り道で、無茶苦茶怪しげなヤツに、楽園に行きたくないかって勧誘されたんです。何言ってんだコイツって感じじゃないですか?」
「おまえ、それ」
確かその手口は、最近巷で流行っているトリップドラッグの誘い文句ではなかったか。――この世の楽園で、このうえもない幸福なひとときを。馬鹿馬鹿しいフレーズだが、意外と引っかかる一般人が多いのだと注意喚起が流れてきていたはずだ。
まさか良いカモにされちゃいないだろうな。問い詰めるような低い声が、反射的に喉を飛び出していた。と、ソイツは慌てたように首を横に振る。
「いや、フツウに気がつきましたって。いくらオレでも、そこまで馬鹿じゃないです。でも、おかげで残業ですよ。業務時間外だっつーのに、余計な仕事させられて」
業務時間内でもいつもゲーム三昧のくせに残業は嫌とか、いったいコイツは何を言っていやがるのか。少しはマトモに働けという話だ。
フッとソイツの視線がスマホの画面から持ち上がった。俺を見据えたその眼差しは鋭く獰猛だ。見る者の背筋をぞくりと凍らせる、冷ややかな瞳。まるでしなやかな野生の獣のそれ。
「――警官にクスリを売りつけようとか、分別がないにも程がある」
吐き捨てるような声色だった。不真面目で飄然としたコイツを、それでも俺が自分の下へと引き抜いたのは、この冷徹さがあるからだ。罪人に対して同情のカケラも抱きはしない、ただ法の支配のもとにその喉笛へと食らいつく番犬。その習性を、忠節を、矜持を、何よりも信頼できると判断したから。
「楽園なんて言って騙くらかせると思われたなら、不愉快極まりないですよ」
心底苛立たしげに唾棄したソイツの全身から漏れる、純然たる殺気。やれやれと息を吐いて手を伸ばし、やや下にあるその頭を軽く叩いた。
「それが嫌なら、まずそのチャラついた格好をやめるんだな」
明るく染めた髪に、ゆらゆらと揺れるシルバーのフックピアス。スーツは限界まで着崩され、はっきり言ってどこぞのチンピラかホストにしか見えない。そのくせ精神の本質だけが、汚職だらけの警察組織の中では眩しいほどに真っ当で誇り高い後輩へと、もはや何度目になるかもわからない注意を口にした。
【風に乗って】
人気のない海辺の岩壁に腰掛け、ギターの弦を弾く。キラキラとした瞳でオレの演奏に聞き入ってくれた君の姿は、もう隣にない。仕事の都合で軽やかに、海外へと飛び立っていった。
売れないシンガーソングライターのオレと、大手商社でバリバリに働く君とじゃ、そもそもが釣り合っていなかったのかもしれない。いっそこのまま縁が切れてしまったほうが、君の人生には良いんじゃないか。そう思うとどうしても、自分から連絡を取ることもできなかった。
それでも、瞳を瞑ればいつだって、思い浮かぶのは君の微笑みだ。思いついたフレーズを気の赴くままに弾いているつもりなのに、その全てを君に聞いてほしいなんて心のどこかで願っている。
(好きだよ)
どうかこの音が風に乗って、海の彼方で生きる君のもとまで伝われば良い。
荒れる海を眺めながら、誰の耳にも届かぬ恋の歌を一人きり奏でた。
【刹那】
忘れられない景色がある。時間にすればほんの一瞬、ひと刹那の情景だ。だけどそれでも、僕の記憶に焼きついて消えることのない、美しくもほろ苦い思い出だった。
白銀の満月がやけに大きく輝く、静寂に包まれた紺青の夜。軽やかなステップで僕を振り返った君は、月を背に負い悠然と瞳を細めた。
いつだって明朗で闊達だった君のイメージとはかけ離れた、やけに大人びた仕草だった。口元に浮かんだ笑みはひどく繊細で、銀色の月影があわあわと君の姿を包み込んでいた。
寂しげで、哀しげで、まるで月に吸い込まれてしまいそうなほどに儚い微笑み。引き止めなければ、手を伸ばさなければ、そんな焦燥が僕の心を掻き立てた。
けれどほんのひと刹那だけ見せられたその神秘的で幽玄な景色は、すぐにいつもの溌剌とした君の笑顔にかき消された。いつも通り大きな声で、君は何でもない日常を面白おかしく語り始める。だから僕は何も触れずいつも通り、君の語りに時折笑い時折ツッコミながら、月の光に照らされた夜の道を君と並んで歩き始めた。きっと今にも壊れてしまいそうにか弱いあの微笑みは見間違いだったのだと、そう愚かにも信じ込んで。
――君が誰にも何も言わずに行方をくらませる、その前日の夜の話だった。
もしもあの時、君の名を呼びその腕を掴んでいたならば。はたして君は今でも、僕の隣にいたのだろうか。
何も掴めなかった右手を見下ろしながら、擦り切れるほどに思い返した君の刹那の微笑みを、ひとりきり月を見上げながら僕は今日も呼び起こした。
【生きる意味】
人々の忙しなく行き交うスクランブル交差点の街頭ディスプレイから、切ないラブソングが高らかに流れていた。伏せられた憂いげな目を飾る長い睫毛、胸に当てられた手の指先が僅かに震える質感、その全てが歌の世界へと聴衆を引き込んでいく。打ち合わせまでの短い時間、俺は道の片隅で足を止め、彼女の歌声に聞き入っていた。
もう随分と昔の話だ。雨の降りしきる明け方の汚れた街角で、澄んだ歌声を耳にした。仕事に疲弊し、趣味もなく、友人すらまともにいない、どん底みたいな生活を送っていたあの頃の俺は、このまま始発電車に飛び込んでしまおうかなんてことを回らない頭で真剣に考えていて。だけど鼓膜を震わせた歌声が、くすんだ俺の世界を瞬く間に輝かせた。
聴く者なんて誰もいない。それでも全身を濡らす雨に構うことすらなく、胸の前でそっと手を組んで、空へと一心に清らかな歌を捧げ続ける美しい人。
気がつけば傘を取り落としていた。グシャグシャに降り積もったどす黒い感情の全てが、雨に溶けて流れ落ちていくようだった。あの日の君の歌声が、俺に生きる意味を与えてくれたんだ。
スマホが胸ポケットで短く振動する。ああ、もう行かなければ。次の仕事は夏の大型歌番組の打ち合わせだ。遅れるわけには決していかない。
――君の歌を、世界に届けたい。心の奥底から湧き上がったその願いが、俺の人生を変えてくれた。だって人間ひとりの命を救うだけのエネルギーが、君の歌声にはあるんだ。勢いで口説き落として、そこからは二人三脚でここまで歩んできた。今となってはもう、君はこの国では名前を知らない人のほうが少ないくらいの、有名で立派な歌姫だ。
街頭ディスプレイの中で微笑む君の姿を両目にしっかりと焼き付けて、俺はマネジメント業務を完璧にこなすために気合を入れ直し、駅へと向けて歩き始めた。
(ありがとう。君が俺の人生に意味を与えてくれたから、俺は今でもこうして息をしている)
【善悪】
人の善悪とは、はたしてどうやって決まるのだろう。壁一面が本棚に埋め尽くされた君の部屋の机の上、堂々と座す黄金色の天秤を私は軽くつついた。
たとえば肉食を禁じる宗教の信者にとって、牛の肉を喰らうことは悪だろう。だけどその宗教を信仰していない人にとっては、肉食は悪でも何でもない。全ての人類の善悪を画一化された基準で秤ることなんて、できようはずもなかった。
「人間社会における善悪なんて、僕だって知らないよ」
私の素朴な疑問に、君は淡々と応じる。面倒くさがって部屋から追い出しにかからないあたり、それなりに気を許してくれてはいるのだろう。そう思うと、少しだけ鼓動が早くなった。
「でも、この天秤が何を基準に傾くかなら、それは簡単な話だ」
君の意図に呼応するように、天秤は私の指を離れ君へと飛び立った。持ち主の手の中に行儀良く収まった天秤は、その輝きを美しく増す。眼鏡の向こうから私を見据える君の空色の瞳は、ただ凛と澄んだ光を映していた。
「その人間が、自分自身の行動を善悪どちらと評価しているか。僕が秤るのはそれだけだ」
死した人の魂を彼岸へと導くのが私の役目なら、そうして招かれた魂の善悪を秤ることが君の役目。自らに与えられた責務を忠実に果たし、彼岸の世の秩序と安寧を守るためだけに、私も君も造られた。
私たちは機械。私たちは人形。彼岸を成立させるためだけの、自由意志など持たぬただの機構に過ぎない。そんなことは分かっている。分かっている、けれど。
「……なら、その天秤で教えてよ。私は善悪どちらなのか」
君のことが、好きなんだ。君とずっと、一緒にいたいんだ。私のこの想いは正しいものなのか悪しきものなのか、自分でも見失ってしまったその認識を、どうか君の口から教えてほしい。
縋るように頼み込めば、ゆっくりと君の瞳が瞬く。机の上へと無言で天秤を戻し、何故か君は私の身体をそっと自身の腕の中へと抱き寄せた。
「どっちでも良いよ、そんなの。それが善でも悪でも、芽生えた気持ちが消えるわけじゃないんだから」
囁くような声だった。視界の片隅で、天秤がフラフラと揺れている。どちらにも傾くことなく、まるで判断を迷うかのように。
背中に触れた君の指先の温度が、ひどく熱く感じられた。