【刹那】
忘れられない景色がある。時間にすればほんの一瞬、ひと刹那の情景だ。だけどそれでも、僕の記憶に焼きついて消えることのない、美しくもほろ苦い思い出だった。
白銀の満月がやけに大きく輝く、静寂に包まれた紺青の夜。軽やかなステップで僕を振り返った君は、月を背に負い悠然と瞳を細めた。
いつだって明朗で闊達だった君のイメージとはかけ離れた、やけに大人びた仕草だった。口元に浮かんだ笑みはひどく繊細で、銀色の月影があわあわと君の姿を包み込んでいた。
寂しげで、哀しげで、まるで月に吸い込まれてしまいそうなほどに儚い微笑み。引き止めなければ、手を伸ばさなければ、そんな焦燥が僕の心を掻き立てた。
けれどほんのひと刹那だけ見せられたその神秘的で幽玄な景色は、すぐにいつもの溌剌とした君の笑顔にかき消された。いつも通り大きな声で、君は何でもない日常を面白おかしく語り始める。だから僕は何も触れずいつも通り、君の語りに時折笑い時折ツッコミながら、月の光に照らされた夜の道を君と並んで歩き始めた。きっと今にも壊れてしまいそうにか弱いあの微笑みは見間違いだったのだと、そう愚かにも信じ込んで。
――君が誰にも何も言わずに行方をくらませる、その前日の夜の話だった。
もしもあの時、君の名を呼びその腕を掴んでいたならば。はたして君は今でも、僕の隣にいたのだろうか。
何も掴めなかった右手を見下ろしながら、擦り切れるほどに思い返した君の刹那の微笑みを、ひとりきり月を見上げながら僕は今日も呼び起こした。
4/28/2023, 10:57:08 PM