【生きる意味】
人々の忙しなく行き交うスクランブル交差点の街頭ディスプレイから、切ないラブソングが高らかに流れていた。伏せられた憂いげな目を飾る長い睫毛、胸に当てられた手の指先が僅かに震える質感、その全てが歌の世界へと聴衆を引き込んでいく。打ち合わせまでの短い時間、俺は道の片隅で足を止め、彼女の歌声に聞き入っていた。
もう随分と昔の話だ。雨の降りしきる明け方の汚れた街角で、澄んだ歌声を耳にした。仕事に疲弊し、趣味もなく、友人すらまともにいない、どん底みたいな生活を送っていたあの頃の俺は、このまま始発電車に飛び込んでしまおうかなんてことを回らない頭で真剣に考えていて。だけど鼓膜を震わせた歌声が、くすんだ俺の世界を瞬く間に輝かせた。
聴く者なんて誰もいない。それでも全身を濡らす雨に構うことすらなく、胸の前でそっと手を組んで、空へと一心に清らかな歌を捧げ続ける美しい人。
気がつけば傘を取り落としていた。グシャグシャに降り積もったどす黒い感情の全てが、雨に溶けて流れ落ちていくようだった。あの日の君の歌声が、俺に生きる意味を与えてくれたんだ。
スマホが胸ポケットで短く振動する。ああ、もう行かなければ。次の仕事は夏の大型歌番組の打ち合わせだ。遅れるわけには決していかない。
――君の歌を、世界に届けたい。心の奥底から湧き上がったその願いが、俺の人生を変えてくれた。だって人間ひとりの命を救うだけのエネルギーが、君の歌声にはあるんだ。勢いで口説き落として、そこからは二人三脚でここまで歩んできた。今となってはもう、君はこの国では名前を知らない人のほうが少ないくらいの、有名で立派な歌姫だ。
街頭ディスプレイの中で微笑む君の姿を両目にしっかりと焼き付けて、俺はマネジメント業務を完璧にこなすために気合を入れ直し、駅へと向けて歩き始めた。
(ありがとう。君が俺の人生に意味を与えてくれたから、俺は今でもこうして息をしている)
4/27/2023, 2:48:54 PM