いろ

Open App

【善悪】

 人の善悪とは、はたしてどうやって決まるのだろう。壁一面が本棚に埋め尽くされた君の部屋の机の上、堂々と座す黄金色の天秤を私は軽くつついた。
 たとえば肉食を禁じる宗教の信者にとって、牛の肉を喰らうことは悪だろう。だけどその宗教を信仰していない人にとっては、肉食は悪でも何でもない。全ての人類の善悪を画一化された基準で秤ることなんて、できようはずもなかった。
「人間社会における善悪なんて、僕だって知らないよ」
 私の素朴な疑問に、君は淡々と応じる。面倒くさがって部屋から追い出しにかからないあたり、それなりに気を許してくれてはいるのだろう。そう思うと、少しだけ鼓動が早くなった。
「でも、この天秤が何を基準に傾くかなら、それは簡単な話だ」
 君の意図に呼応するように、天秤は私の指を離れ君へと飛び立った。持ち主の手の中に行儀良く収まった天秤は、その輝きを美しく増す。眼鏡の向こうから私を見据える君の空色の瞳は、ただ凛と澄んだ光を映していた。
「その人間が、自分自身の行動を善悪どちらと評価しているか。僕が秤るのはそれだけだ」
 死した人の魂を彼岸へと導くのが私の役目なら、そうして招かれた魂の善悪を秤ることが君の役目。自らに与えられた責務を忠実に果たし、彼岸の世の秩序と安寧を守るためだけに、私も君も造られた。
 私たちは機械。私たちは人形。彼岸を成立させるためだけの、自由意志など持たぬただの機構に過ぎない。そんなことは分かっている。分かっている、けれど。
「……なら、その天秤で教えてよ。私は善悪どちらなのか」
 君のことが、好きなんだ。君とずっと、一緒にいたいんだ。私のこの想いは正しいものなのか悪しきものなのか、自分でも見失ってしまったその認識を、どうか君の口から教えてほしい。
 縋るように頼み込めば、ゆっくりと君の瞳が瞬く。机の上へと無言で天秤を戻し、何故か君は私の身体をそっと自身の腕の中へと抱き寄せた。
「どっちでも良いよ、そんなの。それが善でも悪でも、芽生えた気持ちが消えるわけじゃないんだから」
 囁くような声だった。視界の片隅で、天秤がフラフラと揺れている。どちらにも傾くことなく、まるで判断を迷うかのように。
 背中に触れた君の指先の温度が、ひどく熱く感じられた。

 

4/26/2023, 10:21:14 PM