【忘れられない、いつまでも】
嫌なことを全て忘れてしまいたい。そう願うのは人として当たり前のことだろう。失恋、失態、失望……ほんの些細な欠落で、人は容易く僕の店の扉を叩く。
忘却屋――それが僕の生業だ。新宿の片隅の薄汚れたビルの4階、『貴方の記憶、お消しします』なんて怪しげな看板一つしか出していないこんな胡散臭い店に、よくもまあ毎日のように客が訪れるものである。
非常階段の錆びた手すりに寄りかかり、ぼんやりと青空を見上げた。狭い空だ。だけどこんな汚泥を煮詰めたような場所にまで、太陽の光は隔てなく降り注ぐ。それがひどく馬鹿馬鹿しく思えた。
物心ついた時には、脳をいじくり記憶を消す方法を理解していた。嫌だなと思ったことを消して、消して、消し続けた僕の記憶は虫食いの穴だらけで、両親のことも生まれ故郷のことも何一つ思い出せない。だけどそれで、特に不便はなかった。楽しい記憶だけに埋め尽くされた僕の心は、決して傷つくことはないのだから。
『それは、傷だよ』
不意に耳の奥で、囁くような声がした。打ち消すようにポケットから取り出したライターをカチカチと鳴らすけれど、悲しげな君の声は僕の鼓膜を震わせ続ける。
『忘れてしまいたいと願う記憶がそれだけあったってことは、君の心が傷つき続けたってことなんだよ』
タバコの煙を燻らせながら、星一つ見えないネオンに飾られた明るい夜空を見上げて。君は視線を向けることもなく、ただ僕の頭をポンポンと軽く叩いた。
(こんな記憶、要らない)
血の気を失った真っ白な君の顔。病院の地下室の薄暗いベッドに浮かび上がったそれを思い出して、吐き気がした。忘れろ。忘れてしまえ。君と過ごした日々の全部。だってこれを覚えていたら、僕の心には癒えない傷が残ってしまう。
(要らない、のに……)
なのにどうして、僕は記憶を消せないのだろう。もう君がいなくなって一年が経つ。それなのにどうして僕はいつまでも、君との思い出をみっともなくなぞっては、ぐずぐずと傷を膿ませ続けているのだろう。
震える手でタバコを咥えた。君が好きだった銘柄。ライターで火をつければ、ひどく苦いだけの重たい煙が肺を満たす。いつまでも忘れられない記憶を抱きしめて、抜けるように青い空へと向けてゆっくりと息を吐き出した。
5/9/2023, 11:50:12 AM