いろ

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【明日世界がなくなるとしたら、何を願おう】

 泥に汚れ傷のついた、数世代前の音楽プレーヤー。森の中に捨てられていたそれを拾い上げる。なんとはなしに再生ボタンを押してみれば、どうやらまだ充電が残っていたらしい。少し前に流行ったラブソングが、そこそこの音量でスピーカーから流れ始めた。
 もしも明日世界がなくなるとしたら。そんな仮定のもとで、初恋の人への愛を歌う可憐な女性の声。慌てて再生を停めたけれど、既に時は遅かった。
「急にどうしたんだい? 世界の終わりに興味でも芽生えたのかな?」
 どこか揶揄うような色を滲ませた軽やかな声が、俺の鼓膜を震わせた。ああ、もう。地獄耳にもほどがある。
「そんなんじゃない」
「なんだ。てっきり人生に嫌気でも差して、世界戦争でも起こす気になったのかと」
 開いた扇に隠された口元が、明らかににやついていた。小さく舌を打ち、その肩を軽く小突く。
「曲がりなりにも神サマが、悪事を煽ってるんじゃねえよ」
「神なんてしょせん、人間の願いを叶えるだけのただの機構さ。人間の定義する善も悪も、神には無関係だ。願いの結果の責を負うのは、いつだって人間だけなんだよ」
 透き通るように白い、温度のない指先が俺の頬に触れる。細められた赤い瞳が、まるでヨーロッパの童話に出てくる悪魔のように、俺を奈落へと誘うのだ。
「君が神に願うならば、世界くらい明日にでも滅ぼしてあげよう。その罪を閻魔大王がどう裁くのかは知らないけれどね」
「そんなこと願ってねえよ、馬鹿」
 頬に添えられた手を払い除けた。世界中を巻き込んで自殺する気はさらさらないし、そもそも俺は人生に絶望したりも別にしていない。仕事は順調だし、対人関係も良好。正直、この悪魔まがいの神との腐れ縁以外には、とりたてて問題のない順風満帆な毎日を送っていた。
「相変わらず面白みのない」
 整った面差しが、やけに空虚に俺を見つめていた。心底つまらなさそうな態度に、やれやれと息を吐く。この悠然とした神の一柱は、妙なところで子供っぽいのだ。
「願い事をしてほしいならせめて、世界が滅ぶなら何を願うかを聞いてくれ」
「なんだ。世界が滅ぶとしたら叶えてほしい願いくらいは、朴念仁の君にもあるのかい?」
 夕焼け空を映したような真紅の瞳が、きらりと輝いた。ああもう本当に、なんだってこんな面倒なやつとの縁を切ることがいまだにできないのか。……こいつの社がある森へとわざわざ毎週末訪れているのは俺自身だという事実は、あまり認めたくはなかった。
「――俺以外の誰の願いも叶えるな。それだけだ」
 ぱちりと目の前の瞳が瞬いた。不思議そうに首を傾げるそいつから、故意に目を逸らす。
 こうして俺と話していたって社に参拝客が訪れれば、こいつは来訪者の願いに耳を傾ける。だったら最後の一日くらいはおまえと二人きり、誰にも邪魔されずに過ごしてみたいだなんて。あまりに恥ずかしい願い事かもしれないけれど。
 手の中の音楽プレーヤーの冷たさが、火照った手のひらにやけに心地よかった。

5/6/2023, 11:24:22 PM