いろ

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【逃れられない呪縛】

 真っ白いキャンバスに、気の向くままに色を重ねていく。今日の気分は紫色の朝焼けだ。海に昇る朝日が薄暗い空を鮮やかに染めていく、息が止まりそうなほどに美しい記憶に色濃く焼きついた風景。
 正直、今までに何度筆を投げ出しそうになったかわからない。見えない視界で絵を描き続けるなんてできるわけないと、心が折れそうになったこともあった。だけど。
『ねえ、君。いつか個展を開いてよ。私、君の絵のファンになっちゃった』
 ある日突然病気で視力を失って、それまで当たり前に見えていたものが見えなくなって。もうこれを最初で最後にしようと、ほとんど泣きながら病院の庭で筆を走らせた。身体は筆使いを覚えているのに、自分の描く絵の全貌がわからない。その事実に打ちのめされながらもどうにか完成した絵画を見て、朗らかな声をかけてくれた人がいた。
 約束だよと澄んだ音色で囁いたその人は、今はもうどこにもいない。鼻をつくような消毒液の匂いを纏った顔も知らない彼女は、花々の香りが強くなる穏やかな春の日に、彼岸へと旅立っていった。
 筆を置こうとすると、いつも彼女の声がする。だから僕はこうして今でも、必死に絵筆を握り続けてこの場所に踏み留まっている。
 貴女がファンだと言ってくれたから、僕は絵から逃げ出すことができなくなってしまったんだよ。なのに責任も取らずにいなくなるなんて、あまりにも狡すぎないかな。
 逃れることのできない祝福(のろい)の言葉を遺して去って逝った貴女へと、何度目になるかもわからない永遠に届くことのない恨み言を心の中で呟いて、僕はただ絵筆を走らせた。
 

5/23/2023, 12:04:48 PM