【ただ、必死に走る私。何かから逃げるように】
息が切れる。心臓がバクバクとうるさい。自分がどうして走っているかもわからぬまま、ただ必死に走り続ける。何処までも走って、走って、走って――。
目が、覚めた。布団から飛び起きれば、まだ自分の心臓が小刻みに跳ね上がっている。大きく息を吸い込んで、どうにか呼吸を落ち着けた。
スマホの時計を見れば、まだ眠りについてから一時間ほどしか経っていない。最悪、と心の中だけで毒づいた。
せめて水でも飲んでから寝直そうと部屋を出る。リビングのライトに目が眩んだ。カタカタと響いていた軽快なキーボードのタッチ音が、ぴたりと止まる。
「あれ? どうしたの? 起きちゃった?」
「うん。そっちはまだ仕事?」
問いかければ「まあね」と疲れたような声が返ってきた。グッと背伸びをした君は、やけに軽やかに立ち上がる。
「紅茶でも淹れようか。美味しいお茶を飲めば、嫌な夢なんてきっと忘れられるよ」
「え。私、嫌な夢を見たなんて言ったっけ?」
慌てて自分の発言の記憶を辿る。と、君の楽しげな笑い声が鼓膜を揺らした。
「顔を見ればわかるよ。もう何年の付き合いだと思ってるの」
……何が怖かったのかも、もはやわからない夢だ。何かから逃げていたような気もするけれど、それすら明白には思い出せない。良い歳をして夢が怖くて飛び起きたなんて恥ずかしくて仕方がなくて、だけど君があまりにも優しいから、何だか怖さも恥ずかしさも全て何処かに飛んでいってしまいそうだった。
「はい、どうぞ」
目の前に差し出されたマグカップ。ありがとうと微笑んで、温かなそれを両手で受け取った。
5/30/2023, 11:21:23 AM