いろ

Open App

【半袖】

 講義室の左奥、ドアの近くのいつもの定位置。効きすぎた冷房の風に半袖から覗く腕をさすっていれば、不意に机に影が差した。
「また羽織るもの忘れたの?」
 呆れたような声とともに、僕の肩へと布がかけられる。君のお気に入りの薄手のジャケット。それをそっと、落ちないように手で抑えた。
「一限の講義があると、朝あんまり余裕なくて。うっかり忘れちゃうんだよね」
「わかってるなら前日のうちに用意しなよ。風邪引いても知らないから」
 ぶっきらぼうに言いながら、君は僕の前の席へと腰を下ろす。そうそうに文庫本を開いた背中に謝罪と感謝を告げれば、気にするなとでも言うようにひらりと片手を振られた。
 いつも一人きりで本を読んでいる、とっつきづらい雰囲気の孤高の人。それが同学年の連中からの君への評価だ。だけど僕は知っている。君が本当はとても優しくて気の回る人だってことを。
 ねえ、君は気がついているのかな。一限に講義がある日、僕がわざと羽織りものを家に置いてきていること。君より早く大学に来て、教室に入ってきた君の目につく場所でこれ見よがしに寒がってみせていること。だってそうしたら君はいつも、僕に構ってくれるから。
 君の纏っていたジャケットから、ほのかに漂う甘い香水の香り。照れくささと嬉しさの入り混じった弾む気持ちで、僕は手の中でくるりとシャーペンを回した。

5/28/2023, 12:16:35 PM