いろ

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【岐路】

 午後7時28分、最寄駅を出発する最終電車。人気のない真っ暗なホームでその訪れを待つ君は、大きなボストンバッグを大切に抱えている。コートのポケットに両手を突っ込んで、ホームの柱に寄りかかった姿勢のまま、僕は小さく問いかけた。
「本当に行くの?」
「うん、行くよ」
 一切の躊躇いのない澄んだ声だった。電車の明かりが線路の向こうに眩しく光る。ああ、もうすぐ君は旅立ってしまう。
「高校も卒業してない子供が一人で生きていくなんて、できるわけないじゃん」
「そんなの、やってみないとわからないよ」
 力強く君は断言する。君のそういうところが、僕はずっと嫌いだった。
 滑り込んでくる電車のライト。ギギっと僅かな金属音を立てて開くドア。
「じゃあね」
 ひらりと一度だけ手を振って軽やかに電車へと乗り込む君の後ろ姿に、唇の端を噛み締めた。
(僕は君がこの町で生きる理由には、なれなかった)
 僕も一緒に行くよと言えたなら。或いは僕が守るから側にいてと言えたなら。もしかしたら何かが変わっていたのかもしれないけれど。だけどこの町に未練などないと言い切った君の冷めた表情を見てしまっては、言葉なんて何も出てこなかったんだ。
 君の人生に、僕は必要ない。それだけが君の真実だ。だからここが、僕たちの岐路。僕たちの辿る人生はここで別れ、もう二度と重なることはない。
 電車のドアが閉まる。君は僕を見ることすらない。座席に腰掛けて手元の文庫本へと視線を落としている。
 ゆっくりと動き始めた君を乗せた電車は、すぐにホームを離れ、この町から遠ざかっていく。
(さようなら、僕の初恋の人)
 心の中でそっと、小さくなった電車の後ろ姿へと向けて囁いた。

6/8/2023, 12:14:41 PM