【何もいらない】
「ねえ、キミの願いを教えてよ」
朽ちかけた賽銭箱の上に腰掛けた君は、そう問いながら柔らかく瞳を細めた。真っ白な長い髪、真っ白な着物。白ばかりに埋め尽くされた君の姿の中でたった一つ、色彩鮮やかに輝く柘榴色の瞳が、じっと私を見つめていた。
「願いなんてないよ」
パーカーのポケットに両手を突っ込んで、私はそっけなく君に応じる。そうすれば君は、ひどく困ったように眉を下げた。
「宝くじが当たりますようにとか、長生きできますようにとか、何だって良いんだよ? オレ、全力で叶えるから」
鬱蒼と茂る森の木の葉が、ざわざわと揺れる。古びて壊れかけた社の扉が、風に煽られて軋んだ音を立てた。
人々から忘れ去られ、敬愛も願いも何一つとして捧げられなくなった『神様』は、ひとりきり寂しく消えていく日を待つばかり。
「別に。そんなの欲しくないし」
両親は仕事人間で、学校でも浮いていて。居場所なんて何処にもなかった私の話し相手になってくれたのは、そんな『神様』だけだった。威厳も何もない、私の持ち込むお菓子やテレビゲームに目を輝かせる、世俗にどっぷりと染まりきった神様は、私のただ一人の友達だった。
きっとこのひとは、もうじき本当に消えてしまうのだ。だから力なんてもうほとんど残っていないクセに、最後の力を振り絞って、私の願いを叶えるなんて言い出した。
「いらないよ、何にも」
吐き捨てるように告げて、そっと君の手に触れる。いつのまにか温度のなくなった、氷のように冷たい君の指を、ただそっと握りしめた。
(だから少しでも、君と長く一緒にいさせてよ)
【もしも未来を見れるなら】
テレビの中ではいかにも胡散臭い占い師が、貴方の未来を占いますなんて看板を掲げている。サブスクで配信されていたのを暇つぶしに再生したそれは、随分と昔のマイナーな邦画らしい。先クールに放送していた時代劇エンタメドラマの脚本家が若かりし頃に書いた作品だというから、試しに再生してみたのだけれど、今のところはあまり惹きつけられる要素は感じなかった。
「未来って、そんなに知りたいもの?」
スマホで音ゲーに勤しんでいたはずの君が、気がつけば少しだけ視線を上げていた。意外に思いつつ、軽く肩をすくめてみせる。
「さあ。私に聞かないでよ。むしろ私は過去のほうが見たいタイプの人間だし」
「織田信長の死体の行方が知りたい、だっけ?」
「そうそう。あと徳川家重の女性説の真偽とか」
歴史の謎を実際に確認できるというのなら、世の研究者の皆さまにはぜひともタイムマシンを早急に開発していただきたいものである。
「君は? 知りたい未来とかあるの?」
私と違って君は歴史好きというわけでもないから、過去より未来のほうに興味があるのだろうか。素朴な疑問を口にすれば、君は「ううん」と唸りながら首を捻った。
「特に思いつかないんだよなぁ。未来って、知らないから面白いんじゃない?」
「それは同感。知ってどうするのって感じだよね」
これから先も君と一緒にいるのかなとか、十年くらい経ったら転職とかしているのかなとか、そんなものは自由に想像して胸を躍らせているうちが華というものだろう。事実として未来を知ってしまったら、きっとこの世界はどうしようもなく味気ない。
君は笑いながら「だよね」と相槌を打って、スマホの画面へと目線を戻す。音ゲーを再開しようとしたらしい君が、不意に何かを思いついたように「あ」と小さく呟いた。
「明日の通勤の電車、どのドアから乗れば座れるかは知りたいかも」
なんとも呑気でスケールの小さな『知りたい未来』に、私は思わず吹き出してしまった。ああ、テレビの中の映画より、君の発想のほうがよっぽど面白い!
【無色の世界】
晴れた空の色は青色。乾いた大地の色は茶色。聳え立つ木の揺らす葉の色は緑色。絵巻物に記されたそれらは、僕の目には映らない。物心ついたときには既に、僕の瞳は『色』と呼ばれるものを認識しなかった。反射光の強さだけが、僕の視界に映る世界の凹凸を構築している。
くすくすと笑う精霊たちの声が、鼓膜を震わせた。ああ、この可憐で軽やかな声は、花の精霊たちのものだ。彼らの囁きに従って、ツユクサを籠へと刈り取った。乾燥させて解熱剤にしよう。ちょうど在庫が切れかけていた。
「……本当に、色が見えてないんだよな?」
森の中で行き倒れていたところを拾ったら、恩返しにしばらく働かせてほしいなどと言ってきた、良く言えば律儀、悪く言えばクソ真面目な剣士の青年の問いかけに、まあねと軽く頷いた。
「でも、音でわかるから。この花は空の色でしょ?」
精霊たちの奏でる音階が、雲一つない空に踊るのと全く同じ響きだ。隣にある別の色の花と間違えたりはしない。
信じられないとでも言うように目を瞬かせた青年へと顔を寄せて、その瞳をじっと覗き込んだ。ああ、炎の精霊たちが嬉しそうに声を弾ませている。
「君の瞳は、燃え盛る暖炉の火の色だ」
僕の世界に色はない。だけどその代わり、僕の世界には音が溢れている。他の人間たちには聴こえないらしい、精霊たちの囁きがいっぱいに。
――ほら。色のないこの世界は、今日もとびきり鮮やかだ。
【桜散る】
重たい曇天から打ちつける雨が、満開に咲き誇る桜の花を散らしていく。道行く人々が残念そうに息を漏らすのを聞きながら、僕はビニール傘の向こうにべったりと貼りついた薄紅色の花びらを見上げた。
「何でそんな憂鬱そうな顔してるの?」
不思議そうに首を傾げた君が、僕の横でくるりと自身の差した空色の傘を回す。その足取りは、天候に似合わず軽やかだ。まるで君の周りにだけ、晴れた青空が覗いているかのように。
「もったいないなって思ってさ。せっかく咲いたのに、雨なんかで散っちゃって」
溜息混じりに応えれば、君は不意に足を止めた。傘を少しだけ持ち上げて、雨に打たれる花々を瞳を細めて眺める。
「でも、私は好きだなぁ。だってさ、雨が頑張ったねって言って、桜の花を包み込んであげてるみたいじゃない?」
その横顔に浮かんだ笑みの朗らかさに、息が止まるかと思った。天からこぼれ落ちる雨粒が君の笑顔を、満開の桜の花びらを、美しく飾り立てる。
――ああ。いつだって君の語る世界は、どうしようもなく優しく鮮やかだ。君の隣に立っていると、つられたように僕の世界までキラキラと輝いていく。
「……そうだね。桜雨も悪くない」
微笑んでくるりと、僕も自分の傘を回す。ビニール傘の向こうには、桜の花びらが雨の雫に包まれて、柔らかく透けていた。
【ここではない、どこかで】
波一つない静かな湖面に、黄金の満月が浮かんでいる。キャンバスへと一心に絵筆を走らせる人の後ろ姿を、私はただ黙って見つめた。
一年間ずっと、この人の精神の在り方を観察し続けてきた。だけどそんな日々も、今日で終わる。手の中にそっと愛用の鎌を呼び出した。
死を定められた者の魂を一年をかけて見極め、天界へと観察結果を報告し、そして刻限が訪れた瞬間にその命を鎌で刈り取る。それが私たちの仕事だ。そこに私情なんて、決して挟んではならない。
黒蝶が私を促すようにひらりと舞う。刻限だ、わかっている。人々へと死を与える役目を放棄するつもりはない。だけどそれでも、せめて。
キャンバスに映し取られていく、幻想的な風景。重ねられる絵の具が、世界を煌びやかに輝かせる。……ああ、やっぱり。この人の描く絵はあまりに美しい。
やがて、かたりと音を立てて絵筆が置かれた。ゆっくりと私を振り返り、私たちの姿を視ることのできる稀なる人の子は、ただ幸せそうに微笑んだ。
「ありがとう、描き終わるまで待ってくれて」
「お礼なんて必要ないわ。今から貴方の生を終わらせることに、変わりはないのだから」
鎌を振り上げた。それでもその人の泰然とした瞳に、一切の畏れは映らない。まるで自身の運命を、全て受け入れているかのように。
「ねえ、死後の世界ってどんな場所なのかな」
「さあ、知らないわ。ここではないどこかとしか」
私たちの果たすべき仕事は、現世のみで完結する。その後のことは管轄外だ。そっけなく返せば、その人は恋い焦がれるようにキラキラとした瞳ではにかんだ。
「ふふっ。絵に描きたくなるような、素敵な場所だと良いなぁ」
本当に、変わった人。長くこの仕事をしているから、私たちの姿を視る者に出会ったことは過去にも幾度かあったけれど、こんなにも楽しそうに私を見つめる人は初めてだ。だから私も、極力優しく別れを囁いた。
「さようなら。貴方の絵、とても好きだったわ」
振り下ろした鎌が、命を刈り取る。魂の抜かれたがらんどうの身体が、その場に倒れ伏した。感傷に浸る間もなく黒蝶が舞い、次の仕事場への扉を作り出す。
(どうかここではないどこかで、貴方が美しい絵を描き続けられますよう)
月光を反射する深閑たる湖の絵を、最後に一度だけ目に焼き付けて。私は蝶に導かれるままに、その人の亡骸に背を向けた。