いろ

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【ここではない、どこかで】

 波一つない静かな湖面に、黄金の満月が浮かんでいる。キャンバスへと一心に絵筆を走らせる人の後ろ姿を、私はただ黙って見つめた。
 一年間ずっと、この人の精神の在り方を観察し続けてきた。だけどそんな日々も、今日で終わる。手の中にそっと愛用の鎌を呼び出した。
 死を定められた者の魂を一年をかけて見極め、天界へと観察結果を報告し、そして刻限が訪れた瞬間にその命を鎌で刈り取る。それが私たちの仕事だ。そこに私情なんて、決して挟んではならない。
 黒蝶が私を促すようにひらりと舞う。刻限だ、わかっている。人々へと死を与える役目を放棄するつもりはない。だけどそれでも、せめて。
 キャンバスに映し取られていく、幻想的な風景。重ねられる絵の具が、世界を煌びやかに輝かせる。……ああ、やっぱり。この人の描く絵はあまりに美しい。
 やがて、かたりと音を立てて絵筆が置かれた。ゆっくりと私を振り返り、私たちの姿を視ることのできる稀なる人の子は、ただ幸せそうに微笑んだ。
「ありがとう、描き終わるまで待ってくれて」
「お礼なんて必要ないわ。今から貴方の生を終わらせることに、変わりはないのだから」
 鎌を振り上げた。それでもその人の泰然とした瞳に、一切の畏れは映らない。まるで自身の運命を、全て受け入れているかのように。
「ねえ、死後の世界ってどんな場所なのかな」
「さあ、知らないわ。ここではないどこかとしか」
 私たちの果たすべき仕事は、現世のみで完結する。その後のことは管轄外だ。そっけなく返せば、その人は恋い焦がれるようにキラキラとした瞳ではにかんだ。
「ふふっ。絵に描きたくなるような、素敵な場所だと良いなぁ」
 本当に、変わった人。長くこの仕事をしているから、私たちの姿を視る者に出会ったことは過去にも幾度かあったけれど、こんなにも楽しそうに私を見つめる人は初めてだ。だから私も、極力優しく別れを囁いた。
「さようなら。貴方の絵、とても好きだったわ」
 振り下ろした鎌が、命を刈り取る。魂の抜かれたがらんどうの身体が、その場に倒れ伏した。感傷に浸る間もなく黒蝶が舞い、次の仕事場への扉を作り出す。

(どうかここではないどこかで、貴方が美しい絵を描き続けられますよう)

 月光を反射する深閑たる湖の絵を、最後に一度だけ目に焼き付けて。私は蝶に導かれるままに、その人の亡骸に背を向けた。

4/16/2023, 12:04:48 PM