【届かぬ想い】
物心ついた時には、『誰か』の仮面をかぶって生きていた。
求められるままに自分ではない『誰か』の性格を演じれば、大人たちに褒めてもらえた。お金をもらえた。だからずっと舞台の上で、演じて、演じて、演じ続けた。
それ故だろうか。俺の感情はいつだって、誰かの真似事だ。演じた役を引っ張り出して仮面を被らなければ、気持ちを伝えるなんて簡単なことすらできやしない。
「世界で一番、君が好きだ」
慈愛を込めて微笑んで、君の体を腕の中へと抱きしめる。右手を後頭部へと回して、さらりさらりと君の髪を指先で梳いた。
同じ劇団に所属し、何度も同じ舞台に立ってきた君。長年この劇団を引っ張ってきた大先輩が亡くなって、もしかしたらいつか君とも離れる日が来るのかもしれないなんて考えたら、心臓が痛いくらいに収縮した。自然と息が苦しくなった。今まで演じた役をトレースして検証した結果、きっとこれが『好き』という感情なのだと理解した。
だから日々、伝えることにした。心からの愛を囁く言葉を、演じる役を変えて何度も何度も。だけど。
君の纏うオーラが瞬時に変わる。役を演じる直前まで自然体そのものの君が、舞台の上に立ち役を憑依させる、その瞬間と同じように。
伏せられた睫毛が僅かに震え、その目尻から一筋の涙がこぼれ落ちる。この上もなく柔らかくはにかんで、そうして君は俺へとそっと顔を寄せた。
「……今、世界で一番幸せだよ」
唇と唇が重なる。その直前でパッと、君は俺の腕の中から抜け出した。
「最近、毎日エチュードしかけてくるじゃん。まあ、楽しいから良いけどさ」
先ほどまでの甘やかさはどこへやら、あっけらかんと君は笑う。ああ、この役でもダメか。俺の想いは、いつだって君には届かない。演技の練習だと思われて、完璧な演技で返される。
……わかっているんだ、本当は。役を演じて言葉を発する限り、君はそれを演技だと理解する。俺自身の言葉で、俺自身の気持ちを伝えなければ、一生この想いが君に届くことはないって。
(だけど、俺には。その方法が、わからない)
借り物の感情と、借り物の言葉。俺の中にはそれ以外ないんだ。
だからきっと明日も明後日も、俺は『誰か』の仮面を被り、届かぬ愛を君へと捧げ続けるだろう。
【神様へ】
満開のポピーが、一面に咲き誇っている。赤、黄色、白、オレンジ……色とりどりの花々の前に膝をつき、ウイスキーのボトルと二つのグラスとをそっと地面に並べた。
『なんだってそんな場所で寝転がってるんですか、貴方』
中学の頃の一つ年下の後輩。クソ生意気で可愛げの欠片もなかったヤツ。卒業してからは交流なんて一切なくなってたのに、ロクでもないヤツらに絡まれて路地裏のゴミ捨て場に転がってたところを、偶然に見下ろされた。
人生の道の全てを踏み外したような俺と違い、真っ当な人生を歩み、俺でも名前くらいは知ってるような有名企業で働いていたソイツは、その日暮らしを繰り返していた俺なんかを何故か拾い、家に置いてくれた。
やれ就職しろ、やれ家事技能を身につけろと、毎日のように注意してくる口煩さに、辟易したことも正直あったけれど。だけど両親にすら見放された俺なんかを、本気で心配して本気で叱ってくれたのは、ソイツだけだった。……世界でおまえ一人だけ、だったんだ。
「なあ。俺、就職先決まったよ」
いつもおまえが晩酌に傾けていたウイスキーを、グラスに注ぎ入れる。おまえが連れてきてくれた花畑。悪い仲間にもう手を引きたいと伝えて、さんざんに殴られて腫れ上がった頬を抱えて明け方に帰った俺の手を引いて、おまえが教えてくれた秘密の場所。
『頑張った貴方にご褒美です。誰にも教えたこと、ないんですから』
柔らかく微笑んで俺の頭を一度だけ撫でたおまえの手の温もりを思い出す。俺なんかに手を差し伸べてくれたおまえは、俺の神様だった。この温もりは永遠に与えられるものだと、信じて疑っていなかった。
おまえがいなくなって、おまえの遺した日記を読んで、初めて知った。正しくて優しくて完璧なおまえにも、人並みの悩みや苦しみがあったこと。おまえも俺と同じ、ただのロクでもない人間でしかなかったこと。それでも真っ当に生きようと必死に努力して、今のおまえがあったこと。
「俺も、頑張るよ」
カンッと高い音を立てて、グラス同士をぶつけ合った。これからの人生への、決意を込めて。……過去の自分への惜別を、溢れんばかりに詰め込んで。
(さようなら、俺の神様だった人。おまえのいない世界を、俺は生きていくよ)
【快晴】
カーテンを開ければ、冴え渡るような青空が窓の外に広がっていた。雲一つ存在しない、一面の青。晴れやかで美しい光景のはずなのに、何故だかその澄んだ青さが、私の胸をひどく締めつけた。
「白鳥は哀しからずや空の青――」
君が好きだと言っていたフレーズを、思わず口ずさんだ。ああ、この続きはなんだっけ。いつも呆れたように教えてくれた君の声は、もうどこにもない。
ただ、そう。結局僕たちは世界に一人きりなんだよと、そう諦めたように微笑んだ君の横顔を、ぼんやりと思い出した。
私はほんの少しでも、君の救いになることができたのだろうか。今日とよく似た快晴の日、長い闘病の末に眠るように旅立っていった君の、手のひらの温度が指先に蘇った。
君と出会った中学生の頃の教科書を、本棚から引っ張り出す。パラパラとめくれば、目当てのページはすぐに見つかった。
(――海のあをにも染まずただよふ)
印刷された活字を、そっと指でなぞった。波の音をイヤホンで聴きながら、病室の外に広がる青空を眺めていた君は、果たして何を思い、何を願っていたのだろうか。
今となっては誰にもわからない答えを夢想しながら、君が愛用していた青い栞を、手元のページへと挟み込んだ。
(若山牧水『海の声』より引用)
【遠くの空へ】
真っ赤な風船が、抜けるように青い空に浮かんでいる。どこかの子供が手を離してしまったのだろうか、たった一つだけぽっかりと。
青空をゆっくりと、横一文字に飛んでいく風船。河川敷に仰向けに寝転がっていた僕は、思わずそれに手を伸ばした。
人差し指と親指の間にぴたりと収まった風船は、けれどすぐに風に流されて、僕の手の中から抜け出してしまう。ああ、いったいあの風船は、どこまで旅をするのだろうか。
(君のところまで、届けば良いのに)
ネットワークもろくろく整っていない開発途上国へと、子供の教育の普及のためにと旅立っていった君。空港の保安検査場の前、軽やかに手を振った君の笑顔を、ふと思い出した。
果たして今も、君は僕の知らない空の下で、元気に過ごしているのだろうか。
(どうか君の人生が、幸いに満ちたものでありますように)
餞別にと最後に贈ったストールの、君が好きだと言っていた鮮やかな椿の花の刺繍を思い浮かべながら、遠くの空へとどこまでも飛んでいく風船にひそやかな祈りを託した。
【言葉にできない】
君との関係性を、果たしてどんな言葉で表せば良いのだろう。恋人と呼ぶには互いに執着も情動も足りないし、友人と呼ぶにはあまりに距離が近すぎる。
「それ、そんなに大切なこと?」
大真面目な僕の問いかけに、熟読していた新聞から目を上げて、君は呆れたように軽く笑った。
もう十何年もの長い付き合いだ。別のコミュニティに属している時期も、お互いに恋人がいたことも当然あった。だけど何故だか、気がつけば互いの隣に戻ってきてしまう、そんな不可思議な関係性だった。
趣味も性格も全く違うのに、君の隣が一番気楽だ。素の自分を無遠慮にさらけ出しても構わない、世界で最も息がしやすい場所。
「言葉で表現できる関係が、全てじゃないでしょ。今のままでお互い満足なんだから、それで良いんじゃない?」
あっけらかんと言い放ち、君は再び新聞へと目を落とす。うん、そうだね。小さく頷いて、僕も手元のスマホの画面へと視線を戻した。再生ボタンを押せば、片耳にだけはめたイヤホンから、可憐な恋心を歌う流行りのポップスが流れ始める。
好きだとか、恋してるだとか、そうやって定義づけた瞬間にきっと、僕たちの今の関係は壊れてしまう。この居心地の良い距離には、二度と戻れなくなってしまう。そんな予感があった。
すぐ隣の君の温もりを全身に感じながら、僕はそっと瞳を閉じた。
――こうしてずっと永遠に、言葉にできない曖昧な関係性のまま、僕たちは隣り合わせに生きていく。