【春爛漫】
春になるといつだって、あの人の横顔を思い出す。
温かな陽射しが世界を包み込み、桜が満開に花開く季節。病院の中庭のベンチに腰掛けて、一人きりで文庫本を読んでいた美しい人。はらりと舞い落ちた桜の花びらを拾い上げて、栞のように本へと挟み込んだ彼女の白い指先を、僕は今でも忘れられずにいる。
彼女の名前は知らない。いったいどんな理由であの病院に入院していたのかも、果たして彼女が今どこで何をしているのかも、祖母の見舞いのために三ヶ月ほど足を運んでいただけの僕には、確かめる術すらなかった。
だけどそれでも春が訪れ、青空に咲く満開の桜を見上げるたびに、僕はいつも願うのだ。
――春爛漫という言葉がぴったりなあの穏やかな午後に一目見ただけの美しき人が、どうか今でもこの世界のどこかで、桜の花を愛でながら本のページをめくっていますように。そう心から祈って、舞い散る桜の花びらを今年もそっと拾い上げた。
【誰よりも、ずっと】
恋人ができたんだ。そう照れ臭そうに笑う君の表情は、とても幸せそうだった。
相手の名として告げられたのは、僕もよく知る響き。欠点を見つけるほうが難しいくらいに完璧な人の名前。あの人なら絶対に君を幸せにしてくれると、そう無条件に信じられるくらいに、とびきり賢くて誠実な先輩の名だった。
幼い頃からずっと、幼馴染として君と手を取り合って生きてきた。仕事人間でほとんど家にいなかった君の両親より、僕のほうがずっと長く、君と共に時を過ごしてきた。
この世界の誰よりもずっと、僕は君のことを深く知っている。朗らかに振る舞う君が腹の底に抱えた孤独も、君が何を好いて何を嫌うのかも、僕が一番に理解している。
……だからこそ、わかってしまうんだ。君と先輩の相性がこの上もなく良いことも、君が先輩と付き合えることを本心から喜んでいることも、全て。
「良かったね、おめでとう」
ずきずきと痛む心臓を抑えつけて、僕はそんなありきたりな祝福を口にする。ありがとうと笑みを深くした君の表情は、今まで見たどんなものよりもキラキラと輝いて見えた。
(君の幸せを、誰よりも祈り続けているよ。
たとえその隣に、僕がいなかったとしても)
【これからも、ずっと】
目の前に広がる大海原。透き通るように真っ青な海が、どこまでも雄大に続いている。
白砂を踏み締めて、波打ち際へと歩を進める。冷ややかな水が、すぐに素足を包み込んだ。吹き抜ける海風が、私の髪を軽やかに揺らしていく。
首から下げたシルバーのペンダントを、左手でそっと握り込んだ。貴方と共に幾度も来た冬の海。一緒にはしゃいで、一緒にのんびりと会話を交わして、一緒に笑い合った。
もう、この世界のどこにも貴方はいない。白波がちゃぷんと音を立てて、私の足首へと飛沫をあげる。その冷たさが、やけに身に染みた。
(それでも、貴方はここにいる)
ペンダントの中、貴方を詰め込んだ。貴方だった焼かれた骨の欠片を、大切に。これからもずっと、冬になれば貴方と一緒にこの海へ訪れる。貴方と共に、私は生きていく。
(ずっと、ずっと。一緒にいてね)
貴方の優しい笑顔を思い出しながら、温度のないペンダントの表面にそっと口づけを落とした。
【沈む夕日】
赤々と燃える丸い夕陽が、地平線のすぐ上に輝いている。茜色に染まった空が、息を呑むほどに美しい。
「じゃあね」
優しく手を振った君の頬も、夕焼けに照らされて色づいていた。明日の朝にはもう、君はこの町にはいない。夜行バスに一人乗って、生まれ育ったこの土地を君は巣立っていく。
僕も行くよと言えたなら、果たして未来は変わっていたのだろうか。だけど臆病な僕には、都会で叶えたい夢も、この土地を離れる覚悟も何もない。ゆりかごのように温かで変化のないこの場所で、ただゆったりと時を過ごしていくばかり。
視線を落とせば君の真っ黒な影が、地面に長く伸びていた。まるで僕の怯懦を嘲笑うかのように。
未練の一つも感じさせない潔い足取りで、君は僕に背を向ける。夕日の沈む真っ赤な空へと、真っ直ぐに去っていく。
だから僕も、踵を返した。見送りなんて、淡白な君はきっと望まない。僕たちの進む道はここで別れ、二度と交わることはない。それだけが事実だ。
紫に染まりつつある東の空に、真っ白い月がぽっかりと浮かんでいた。紙でも切って貼り付けたかのように、薄っぺらい月の影。
(君のことが、好きだったよ)
結局最後まで君へ伝えることのできなかった告白を、紛い物めいた空虚な月へとそっと語りかけた。
【君の目を見つめると】
放課後の図書館。静寂に包まれた閲覧室には夕日が淡く差し込み、世界が優しい橙色に染まっている。
君と隣り合わせの席で、互いに本のページを無言でめくるこの時間が、何よりも好きだ。君の温度を、君の息遣いを、肌に感じながら、黄ばんだページに印刷された文字を追っていく。そんなたわいない時間が、この上もなく幸福で。
とんとんと軽く、君の指先が私の腕をつつく。目線を上げればすぐ近くに、君の顔があった。
「次の本、取ってくるね」
囁くような音量で微笑んだ君の瞳が、傾いた陽光に照らされて美しく輝いている。そこに映り込んだ私の眼差しは、それはもう柔らかに蕩けていた。
君の目を見つめると、いつも実感させられる。君の前にいると、自分の表情がどれだけ甘ったるくなるか。自分がどれだけ、君を愛おしく思ってしまっているか。
「うん、いってらっしゃい」
君はいったい、こんな私をどう思っているんだろう。それを確かめることは怖くて、どうしてもできなかった。だから私はいつも通り、小さく手を振って君を送り出す。
変わらない毎日。変わらない幸せ。まだもう少しだけ、このぬるま湯に浸っていたい。そう願って、私はただ自分の手元の本へと視線を戻した。