【幸せに】
兄が泣いている姿を、初めて見た。両の目からポロポロと、透明な雫がこぼれ落ちていく。自分でもそれに気がついたのか、慌てたようにゴシゴシと目をこする兄の手を、優しく取った。
「ダメだよ、そんな雑にこすったら」
そう私に教えてくれたのは、兄のほうなのに。なんだかまるで、いつもと立場が逆になったみたいだ。
五つ歳上の兄はいつだって、手の届かない大人のように私の目には映っていた。高校の卒業と同時に友人たちと起業した兄は、両親が事故で亡くなった時にはまだ二十歳になったばかりだったくせに、既にある程度の稼ぎを得ていた。そうしてまるでそれが当たり前の責務であるかのように、両親の代わりに私を育て見守ってくれた。……きっと本当は、もっと自由にもっと身軽に、生きていけたはずの人なのに。
「ねえ、私はもう大丈夫だよ」
好きな人ができて、それなりに長いことお付き合いをした。たくさん遊んでたくさん喧嘩もしたその人と今日、私は結ばれる。
「ありがとう、ここまで育ててくれて」
高校も大学も、きっと兄がいなければ通えなかった。よしんば通えていたとしても、他のみんなと同じような明るい青春を送ることは、兄がいなければ絶対にできなかった。
「だからお兄ちゃん。これからはちゃんと、幸せになってね」
私の幸福は、あなたが背負った重荷の上に成り立ったたもの。だからどうかこの先の未来では、あなたがあなたの幸せのために生きることができますように。
肩を震わせて俯いた兄のことを、そっと抱きしめた。ねえ、お兄ちゃん。お兄ちゃんの背中って本当は、こんなに小さかったんだね。今まで知らなかったよ。
「俺の台詞を取ってんじゃねえよ、馬鹿っ……」
濡れて掠れた声で悪態をこぼし、そうして兄は私の頭を軽く撫でた。
幸せになれよ。囁くように言祝がれた祝福に、視界が少しだけ淡く滲む。それを悟られないようにただ一つ、うんと頷きを返した。
【何気ないふり】
抜けるような青天の下に桜の花が満開に咲き誇る川沿いの道は、多くの花見客で賑わっていた。
例年であれば、ここまでごった返すことはないのだけれど、どうやら今年はテレビの情報番組か何かで、花見の穴場スポットとしてこの場所が紹介されたらしい。こんなに人が押し寄せてしまったら、もうそれは穴場でも何でもないのではないだろうか。なんて、至極くだらないことを頭の片隅で思った。
私たちにとってこの道は、春になると桜が綺麗な、ただの最寄り駅までの経路に過ぎない。そして残念ながら、ちょうど良い迂回路が他にない以上は、桜を目当てに訪れたわけでもないのにこの人混みへと諦めて突入するしかなかった。
一つ年下のくせに生意気にも少しだけ上にある君の顔を、ちらりと仰ぎ見る。人混みが大嫌いな君は案の定、眉間に深いしわを寄せていた。なるべく自然な動作で、そっと君の手を握る。
「行こう。はぐれないでね」
君が人に流されてしまわないように。ちゃんと二人で無事に駅まで辿り着けるように。全部全部君のためで、何でもないことなんだよって顔をして、重ねた手に少しだけ力を込めた。
どきんどきんと跳ねる私の心音が、どうか君に届いていませんように。触れ合った指先に集まった熱が、どうか君まで伝わっていませんように。
君の手を引いて人波をかき分けながら、ひっそりとそう祈る私の頭上に、桜の花びらがひとひら舞い落ちた。
【ハッピーエンド】
革命には民衆を導く英雄が必要で、英雄には倒すべき悪役が必要だ。だからどこまでも高い青空の下、両手を広げてお前を振り返った。
血の一滴も流れない、犠牲者のいない革命なんて、そんなのしょせんは夢物語だ。それでは熱に煽られた民衆は納得しない。新たな時代の訪れを理解できない。古く悪しき権力の象徴を、誰の目にもわかる形で打ち倒さなければ、この世界は何も変わりはしない。
「いい加減、この馬鹿げた革命劇を終わらせよう」
英雄と人々から持て囃された男を真っ直ぐに見据えて、口角を持ち上げる。黒幕よろしく、高らかに嘲笑った。
「ここにまだ、王家の人間が立っている。お前たちのおかげで、他の連中を追い出せて助かったよ。これで俺が、俺こそが、この国の王。民主主義を謳うなら、この俺を倒してからにしろ」
お前の掲げる理想論は、好きだった。民を思うお前の願いは本物だったし、平和な未来のためにと奔走するお前になら協力しても良いと思った。だから父も兄も貴族たちも裏切って、革命の手助けをしてやった。
誰も殺さず、王家の特権だけ無くせば良いなんて、本当にお前は甘すぎる。優しく美しい理想の世界など、結局は幻想に過ぎない。現実はいつだって、厳しく残酷だ。
どうしてと。泣きそうな顔で問う『英雄』に、答えてやれる言葉は俺にはない。俺は『悪役』、ここで打ち滅ぼされるべき『敵』。何でも教えてやって時には叱ってやる頼りになる仲間では、もういてはやれないんだ。
お前に力を貸すと決めた最初から、俺はこの時を待っていた。これが俺の望むハッピーエンド。俺の選んだ、最上の結末。
(さあ。俺を殺して、この革命を終わらせてくれ)
かくして裏切り者の悪しき王族は正義の英雄の手で始末され、世界には平和が訪れました。めでたし、めでたし。
この鮮やかな英雄譚の最後の一文は、そう締め括られることこそが最も相応しいのだから。
【見つめられると】
君の瞳が、嫌いだ。いつだって真っ直ぐに僕の姿を映し出す、その透徹な瞳が。
「本当に、貴方はそれで良いの?」
うるさいな、良いって言ってるじゃないか。頼られるのも、誰かの役に立つのも、決して悪いことじゃないんだから。
彼らが口にした部活や塾で忙しいという言い分だって、たぶん嘘ではないだろう。そうして積み上がった書類を僕なら一人で捌ききれるって信用も、あながち間違ってはいないんだ。だったら問題視することなんて、何もない。
「ねえ、本気でそう思ってる?」
夜の水面を切り出したみたいな君の真っ黒な瞳に、ゆらゆらと。歪んだ僕の顔が、無機質に反射している。それを見ていたくなくて、視線を逸らした。
「ちゃんと私の目を見て答えてよ」
だけど君は、そんな僕の逃避を許さない。のろのろと目線を戻せば、差し込む夕日に照らされた力強い君の眼光に捉われる。
ああ、駄目だ。君に見つめられると、強がりが剥がれ落ちてしまう。温厚で頼りになる優等生の仮面なんて、どこかに吹き飛ばされてしまう。
てつだって、ほしい。掠れた声で囁けば、君は満足そうに笑って僕の額を指で軽く弾いた。
「最初からそう言ってよ。私ならいくらだって、手を貸してあげるから」
今日もやっぱり、君には敵わない。だから僕は、君の瞳が大嫌いだ。
【My Heart】
治安の最悪な汚れた貧民街で、ドブネズミのように生きていた僕を助けてくれたのは、自らを鬼と名乗る不思議な女性だった。
緩く波打った長い白髪。夕焼け空のような赤い瞳。人目を集める異形めいた容姿を隠すようにローブを深くかぶり、右手に杖をついて片足を引き摺り歩く。そんな彼女こそが、路地の片隅のゴミ溜まりで死にかけていた僕の腕を引き、人間みたいな生活を与えてくれた恩人だった。
彼女が何故、僕を拾ったのか。その答えを僕は知らない。もしかしたら本当は、何か恐ろしい理由があるのかもしれない。彼女は必要最低限しか口を開いてくれないから、確かめることもできなかった。
だけど温かな食事の美味しさも、国家に敷かれた法律の存在も、人間としての正しい倫理観も、今の僕を構築する全ては彼女から教わったものだ。彼女がいなければ、僕はあの日一人きりでのたれ死んでいた。
それでも僕は、彼女に何も返せない。返せるだけのものを、持って生まれてこなかった。だからせめて。
「僕の心臓は、あなたにあげるね」
儀式の生贄にしたって、あなたを迫害した社会への復讐の道具にしたって、何だって良いから。ほんの少しだけ綺麗な世界を見せてくれたお礼に、僕は僕の全部をあなたへと捧げよう。
彼女の手が、そっと僕の頭を撫でた。僕を見下ろすその眼差しが寂しげに見えたのは、いったい何故だったのか。バカな僕には、どうしてもわからなかった。