いろ

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【幸せに】

 兄が泣いている姿を、初めて見た。両の目からポロポロと、透明な雫がこぼれ落ちていく。自分でもそれに気がついたのか、慌てたようにゴシゴシと目をこする兄の手を、優しく取った。
「ダメだよ、そんな雑にこすったら」
 そう私に教えてくれたのは、兄のほうなのに。なんだかまるで、いつもと立場が逆になったみたいだ。
 五つ歳上の兄はいつだって、手の届かない大人のように私の目には映っていた。高校の卒業と同時に友人たちと起業した兄は、両親が事故で亡くなった時にはまだ二十歳になったばかりだったくせに、既にある程度の稼ぎを得ていた。そうしてまるでそれが当たり前の責務であるかのように、両親の代わりに私を育て見守ってくれた。……きっと本当は、もっと自由にもっと身軽に、生きていけたはずの人なのに。
「ねえ、私はもう大丈夫だよ」
 好きな人ができて、それなりに長いことお付き合いをした。たくさん遊んでたくさん喧嘩もしたその人と今日、私は結ばれる。
「ありがとう、ここまで育ててくれて」
 高校も大学も、きっと兄がいなければ通えなかった。よしんば通えていたとしても、他のみんなと同じような明るい青春を送ることは、兄がいなければ絶対にできなかった。
「だからお兄ちゃん。これからはちゃんと、幸せになってね」
 私の幸福は、あなたが背負った重荷の上に成り立ったたもの。だからどうかこの先の未来では、あなたがあなたの幸せのために生きることができますように。
 肩を震わせて俯いた兄のことを、そっと抱きしめた。ねえ、お兄ちゃん。お兄ちゃんの背中って本当は、こんなに小さかったんだね。今まで知らなかったよ。
「俺の台詞を取ってんじゃねえよ、馬鹿っ……」
 濡れて掠れた声で悪態をこぼし、そうして兄は私の頭を軽く撫でた。
 幸せになれよ。囁くように言祝がれた祝福に、視界が少しだけ淡く滲む。それを悟られないようにただ一つ、うんと頷きを返した。

3/31/2023, 12:38:06 PM