午前6時。
アラームが鳴る少し前に目が覚めてベッドから出ると、リビングのカーテンを開ける。
空の闇色が僅かに緩んだものの外は未だ暗く、その東の空に細く薄く澄んだ色をした三日月が浮かんでいた。
これから更に細くなる月は明日までは見られるだろうかと、そんなとりとめもない事を思っていると背後からベッドから抜け出したばかりの大きな温もりが抱きついてきた。
「……はよぉ」
「おはよ。珍しいね叩き起す前に起きるの」
耳元で響く寝起き特有の掠れた声に肌が粟立ちそうになるけど、それに気を向けないように問う。その問いに彼は唸るようにんん……とろくな返答にもならない声で応えながら私の肩口に顔を擦り付けた。
昨日も布団に入るのは遅かったようだし、いつもならまだぐっすり眠っている時間だから仕方のないことだろうけど。
「休みに…寝てばっかもつまんねぇ……折角揃って、休み…、…」
なんてとんでもなくデカい駄々っ子だろう。
眠いなら素直に寝ときなさい!と思わない訳では無いけど、こういう姿も可愛いじゃないの…と思ってしまうあたりかなり、私はこの男にかなり絆されてしまったらしい。
「なら目覚ましに散歩でも行く?」
「……クソ寒ィのに?」
そんな一言で目が覚めたらしい。じっとりとした視線とハッキリとした声が向けられる。
「寝てばっかりもつまんないって言ったのはあなたでしょ?」
「だからってこんな早くに出ることねぇだろ」
ブツブツいう彼に思わず笑い出しながら窓の外を指さす。
「クロワッサン。食べよ」
「仕方ねぇなぁ」
空が白み始めたせいで先程よりも随分と儚い色になった三日月を指さすと、納得したように彼が笑った。
「あれっぽちじゃ腹膨れねぇわ」
「食感は良さそうだけどね。カリッとポキっとしてて」
そんな他愛ない会話をしながら各々着替え始める。
少し暖房で温もったとはいえそれでもひんやりとする空気に急いで服へ袖を通す。
「つーか……こんな時間にパン屋開いてんの?」
「駅前まで行けばあるんじゃない?通勤途中に買う人もいるだろうし」
「ま、開いてなきゃ探そうぜ。なんたって休みだからな」
さっきまでの寝ぼけた姿はなくウキウキとした彼と共に出かける支度を済ませると戸締りをして外へ出る。
また少し明るさを増したけど、未だ日も差さず刺すような寒さに吐く息が煙る。
歩き出そうとする私の手を、彼の大きくて少し骨張った手が握りこんできてそのまま彼のアウターのポケットへと収められる。
「温まるまで」
私を見下ろしてそう言葉を紡いだ唇が丁度真後ろにある三日月のような弧を描く。
「……温まるまでね」
同じ言葉を返した私を見てヒヒッと嬉しそうに笑った彼と歩き出す。
少しずつ薄らいできた三日月と共に朝の散歩が始まった。
白いトレーにカランカランと乾いた音と共に色とりどりの小さな星が転がり出てくる。
いつかの遠い日、近所のお姉さんに「星を捕まえたからあげるね」と内緒話のように言われて渡されたことをふと思い出した。
横から伸びた手が黄色の星を摘んで口へと放り込むのをみて、ピンクの星を1つ手に取る。
「それ何味だった?」
「……砂糖味」
急な問いに一瞬彼女は咀嚼していた口を止めて考え込むと、多分、と付け加えながら答える。
「これも砂糖味。緑は?」
「砂糖味かなぁ」
トレーに散らばる星々を指先で探って、探し当てたお目当ての星を彼女の口元へ差し出すと、遠慮がちに咥えてカリッと小さな音を立てて咀嚼する。
今度は考える間もなく返事が返ってきた。
「水色も砂糖味だわ」
「どれも同じでしょ?」
そういう彼女の指がトレーをなぞると、カランと音を立てて色が散らばる。指の動きと金平糖の散らばる様子がやけに綺麗に見えた。
「わかんねぇだろ?どれかアタリがあるかもしれねぇじゃん?」
「アタリって言ってる時点でほとんど同じ味ってことじゃない」
「違いねぇ」
ド正論の言葉に笑って今度は白の粒を口に放り込む。舌の上で転がして金平糖特有の棘を感じたあと奥歯で齧ると、また一気に甘さが口いっぱいに広がった。
「なんか、どっかにあったよな。味も値段もド派手な金平糖の店」
「金平糖の……京都じゃ無かった?」
パッと出てくるあたり流石だと思う。
確かこの辺で、と説明されるが俺は全く分からずへぇ、と相槌を打つしかできない。
詳しい場所を知っている辺り、いつか行こうと計画を立てたことがあるのかもしれない。
「なぁ、行こうぜ今度。京都だと甘味も色々あるし、甘味巡りも出来んだろ?気になる店とかねぇの?」
一瞬の沈黙と反らされた視線が「あるけど」と言葉なく語る。
「貴方が得意じゃないでしょ、甘いもの」
「食えないわけじゃねぇし、甘いもん食ってるときの幸せそーな顔みたいから何件でも付き合うぜ?」
「言質取った!」
ニヤリと笑う顔にしまったと思わなくもないが、珍しく乗り気なのだから後悔はない。
「休み確保出来そうなとこ見つけたら、早めに宿も押さえたいね」
そう言いながらまた1つ金平糖が薄い唇へと吸い込まれていく。それを見ながら軽く身を乗り出し、その唇をそっと塞ぐ
「……甘ぇ」
唇から伝わる甘さにそう呟くと、笑いの籠った「当たり前でしょ」の声が響く。
「甘さに慣れたら、一緒に甘味食い倒れも出来るかも?」
笑いながら彼女が言うと、散らばる星を1つ拾い上げて口へと放り込む。
「もう1回、どう?」
「イタダキマス」
誘われるがままに、もう一度唇を重ねる。
唇からまたジワリと甘美な甘みが広がった。
1月にしては珍しく暖かいと感じられる今日、日差しに誘われるようにサンダルをつっかけてベランダへと出る。
時折吹く風に冬特有の冷たさは含まれるものの、降り注ぐ日の温かさのお陰で寒さを感じることは無かった。
築数十年になるボロアパートの手すりは雨風に晒されてペンキだけがあちこちで薄く捲れ上がってボロボロになっている。だが前の住人もその前の住人もこうして眼前の景色を眺めていたのだろう。一部分だけ薄皮のようなペンキが剥がれ落ちていて、そこへ体重をかけて凭れかかると鉄のつるりとした感触とひやりとした温度がスウェット越しに伝わってきた。
「そこでなにやってるの」
どれだけそうしていたのか、不意に下からかけられた声に視線を落とすと今日は会う予定のなかった想い人がそこにいた。
「急にくるとか珍しいじゃん」
はっきりと問いかけの返事をしない自分の声に喜色が混じっているのがよくわかる。そんな俺の声色に、想い人は少しバツが悪そうな、少し不貞腐れたような顔をする。
「天気良くて散歩出たらたまたま着いただけ」
「ふーん、たまたま…ねぇ」
揶揄したつもりでは無いがそう取られたのか、さっきよりもその表情と「悪い?」の声がより一層不機嫌さを増す。
……まぁ、それも本当に怒っているわけじゃなくて照れ隠しなのは知っているんだけど。
たまたまにしては手土産に近所の和菓子屋の袋を手にしているし、なにより付き合いの長さでなんとなく、微妙な表情の違いとか素直に会いに来たとなかなか言えないその性格をわかっている。
「寄ってくだろ?なんか入れてやるから上がってこいよ」
小さく聞こえる「ん、」の返事を聞くと部屋へ入り、キッチンでやかんに火をかけたところで、軋んだ戸の音と遠慮がちなお邪魔しますの声と共に響く。
今日の冬晴れのような穏やかな時間の始まりを期待して、寒さに顔をほんのりと赤く染めた人を迎え入れた。
「おやすみ」
1人っきりの部屋で自分の声だけが闇の中に溶けていく。
隣にいることが当たり前だったから、習慣になってしまった言葉たちは今や虚しいだけだ。
おはよう
いってらっしゃい
ただいま
そして、眠りにつく前のこの言葉。
幾夜過ごせばいわずに眠れるようになるんだろう。
あと幾夜でこのひとりぽっちに慣れるんだろう。
そう思案したところで答えは出ないし
そう思案しているうちはあの人を忘れることなんて出来ないのだ。
「……おやすみ」
今度は1人を噛み締めるように呟いた言葉が、また1つ闇に溶けて消えた。
すっきりと晴れた空に、細く長い煙が上がっていく。
風に愛されていたお前のことだ、きっと身体という器が無くなって、空高く駆けて遊び回っているのだろう。
そんな事を思いながら、段々と冷え込み始めた空へ1つ白い息を吐いた。
「…こんなに小さくなっちまうんだな」
骨壷を抱え呟くと、皆様そう言われますと葬儀場の男が薄く笑みを浮かべて頷く。
もう既に親族も絶えてしまったこいつの為に、1つ墓を立てた。そこへ納める前に、そっと骨壷を開けて小さな欠片をこっそりと取り出す。
「少し預かっていてくれ」
厠へ行く、と言い残して涙の止まらぬ友人の1人へと骨壷を預ける。
ゆっくりと歩き、厠を通り越して誰もいない空のよく見える場所へと向かうと、握りしめていた手を開く。
「……俺もすぐそっちへ向かうっていうと、お前は怒るだろうからな」
小さく小さくなってしまった、その欠片へと笑いながら話しかける。
「せめて俺が逝くまで、一緒にいてくれや」
丸薬を飲むように、その欠片を口へ放り込む。
舌の上にあるざらりとした感触と一緒に、ごくりとそれを嚥下する。
これで、ずぅっと一緒だな
『永遠に』