「今日は何時までに帰ればいいの?」
物憂げにつぶやく視線の先には、ダッシュボードの上の時計がある。
「今日は子どもが早帰りだから、遅くても3時かな。」
「それだけあれば余裕だね。」
彼はそう言いながら、背後から激しく抱きしめた。待ちきれないようにブラウスの隙間から手を入れる。
かすかな罪悪感が頭をよぎった。
【視線の先】
「これが、猪。これは、ウサギ。ほんでこれは、鹿の足跡やな。」
手を繋いで土手の上を歩きながら、父は一つひとつの足跡の主を教えてくれる。これは、私の遠い日の記憶だ。
薄く白い霧の中。土手は集落の端で途切れている。ふだんなら、絶対に足を運ばない寂しい場所だ。
こんなところにわざわざ来る必要があったのだろうか。どうして父は、わざわざこの場所に私を連れてきたのか。
もしかしたら、あれは幻だったのかもしれない。意識のない父の横で、私はそんなことを考える。身体には、いくつかのチューブがつながれている。
私を支えてくれた日灼けした肌が、少ししぼんで見えるのが悲しい。父は、いつの間にこんなに歳を取ったのだろう。
無音の病室に、かすかに蝉の声が響いてくる。それを聞くと、故郷での遠い日の出来事が、まるで夢のように思い出される。
いや、もしかしたら本当に夢だったのかもしれない。あまり良好とは言えなかった父との関係を埋め合わせるために、仲の良い風景を脳が捏造したのではないか。
そんなことも考えた。しかしその記憶は、私の心にしっかりと根を下ろしている。
【遠い日の記憶】
「もう、終わりにしよう…。」
「は?」
私は手にしたフォークを落としそうになった。せっかく雰囲気のいいレストランに来ているのに。
今日はせっかく、ちゃんとお化粧もして、お気に入りのワンピースも着てきたのに。
「もう、こういう曖昧な関係は、よくないと思うんだよね。」
曖昧な関係…そう、私たちは籍も入れずに、同棲生活を続けている。一緒に暮らし始めて、もう3年になる。実家の母親からは、どうなっているのかと年中電話でせっつかれている。
「それはもう、この関係をやめるっていう意味?」
ついに来た。私は身体が、鉛のように重くなるのを感じた。やはり、腕利きのパティシエとして、雑誌の取材も来るようになった彼と、一介のOLである私とは、住む世界が違うのだ。
「そっか…。」
別れの話を切り出すために、わざわざこんな綺麗なお店を予約するなんて。女性には誰にでも優しい彼らしいけど、それがかえって人の心を傷付けるのだ、と少し腹が立った。
お皿に残ったルッコラを、どうやって食べようかとフォークとナイフで突っつき始めたとき、彼が紺色の小箱をテーブルの上に置いた。
「もう、曖昧な関係は終わりにしたいんだ。」
「…はあ。」
私はよく意味が分からず、素っ頓狂な声をあげた。
「俺と、結婚しよう。」
「は?」
よく見ると、それは宝石を入れる小箱だ。彼はそっと小箱を開いて、それからていねいに、キラキラと輝く指輪を私の薬指にはめた。
「!?」
驚きで、咄嗟に言葉が出ない。ようやく顔をあげて彼の瞳を見つめた。瞳がやさしそうに微笑んでいる。
「俺と、結婚してください。」
再度、低い声で告げた。私はつられて微笑んだ。テーブルの上に置いた薬指と、それにはめられた指輪を見つめる。
「…は、はい。」
私はほとんど声にならない返事をして、ぎこちなく微笑んだ。
【終わりにしよう】
「わしらは浜松の国衆と、手を取り合って進むんじゃ!」
殿は、興奮して叫びながら、部屋の中をグルグルと歩き回っている。きっとアドレナリンが出まくっているんだろう。
しかしこの後起きることを知っている俺は、迂闊には賛同できない。徳川はこの戦で、コテンパンにやられる。それが史実だ。
この戦の戦死者は、たしか3000人くらいいたはずだ。三方原で武田軍に待ち伏せされた徳川軍は、文字通り惨敗に終わる。その中に俺が加わるのはゴメンだ…
「と、殿!岡崎へはいかが知らせましょうか?」
おずおずと俺は声をかけた。出来れば、何とか出陣を思い止まらせたい。しかしそれでは、歴史への干渉になってしまう。出来ることは、そう逃げることだ。
俺は伝令として、城を出ることにした。
【手を取り合って】
「あーあ来週かあ…。」
私は大きく伸びをした。ここは、会社の休憩所だ。
「何が?」
同僚のイシイちゃんが尋ねる。アクティブな彼女と大人しい私では、まったくタイプが違うが、不思議とウマが合うのだ。
「いや、来週結婚式なんだよね。友達の。出費はかさむし、旦那はイケメンだし、イマイチお祝いするモードになれないんだよねえ…。」
「人の幸せを素直に喜べない人は、劣等感が強いらしいよ。」
「え、何それ!?」
私は思わぬ鋭い言葉に、胸をズシリと射抜かれたように感じた。
「劣等感?そりゃまあ、確かにあるけど…。でも友達も悪いんだよ、なんせイケメンの旦那ができて、優越感のかたまりみたいになってるんだから…。」
「まあまあ。そんなんほっときなよ!飲みに行こ!」
彼女は何かというと飲みに誘う。
「わかった。じゃあ仕事終わったらね!」
私は思わず約束をして、制服に着替えた。制服があるのは嫌だったが、今以上は太れないという縛りが出来て、助かる部分はある。
結婚式前にあまり太りたくはないが、この制服が入るサイズなら、パーティードレスも入るはずだ。
【劣等感、優越感】