「これが、猪。これは、ウサギ。ほんでこれは、鹿の足跡やな。」
手を繋いで土手の上を歩きながら、父は一つひとつの足跡の主を教えてくれる。これは、私の遠い日の記憶だ。
薄く白い霧の中。土手は集落の端で途切れている。ふだんなら、絶対に足を運ばない寂しい場所だ。
こんなところにわざわざ来る必要があったのだろうか。どうして父は、わざわざこの場所に私を連れてきたのか。
もしかしたら、あれは幻だったのかもしれない。意識のない父の横で、私はそんなことを考える。身体には、いくつかのチューブがつながれている。
私を支えてくれた日灼けした肌が、少ししぼんで見えるのが悲しい。父は、いつの間にこんなに歳を取ったのだろう。
無音の病室に、かすかに蝉の声が響いてくる。それを聞くと、故郷での遠い日の出来事が、まるで夢のように思い出される。
いや、もしかしたら本当に夢だったのかもしれない。あまり良好とは言えなかった父との関係を埋め合わせるために、仲の良い風景を脳が捏造したのではないか。
そんなことも考えた。しかしその記憶は、私の心にしっかりと根を下ろしている。
【遠い日の記憶】
7/17/2023, 12:55:57 PM