八月三十一日、午後五時。海から吹く風は少し冷めて、穏やかに私の髪を揺らしていた。
「……夏、終わっちゃうね……」
明日からはまた、いつもと変わらない喧噪の中で過ごすのだろう。今までの何年も変わらず、これからもしばらくは同じように。
まあ、それにしても。
「本当に、今年の夏も何にも出来なかったな……」
思い返してみても、今年の夏も何も新しいことなんて出来なかった。やってみたかったことも、変えてみたかったことも。出来たことなんて、結局は朝ゆっくり起きて、蝉の騒がしい昼はエアコンの効いた部屋でごろごろと転がって、星空に虫の声が消えていく夜は扇風機の前でとうもろこしをかじって、明日こそは、と思って布団を蹴っ飛ばして寝て、それの繰り返しだ。
「……でもさ」
ふと思う。
これは、きっと何でもなくて、だからこそ、大事な毎日なんだろうな、と。……かと言って、自堕落な生活を続けていい、って言い訳にはならないだろうけど。
けど、それでもいいんだろうね。
小さく、誰にも届かないくらいに小さく呟いたその言葉は、一瞬吹いた強い風に流されて、空へと消えていった。
いつからだろう、何の変哲もない『普通の人生』に憧れ始めたのは。
思えば、私の人生は例えて言うならば荒波を越えるようなものだった。具体的に言うと古傷を抉るようなものだから、言うつもりもないけども。だからこそ、私は普通の人生を希っていた。
「……ねえ」
「何?」
時刻は午後二時十三分。夏空の下、屋上で。私は隣に座ってグラウンドを眺めている彼女――確か、保育園の頃からの付き合いだったか――に声をかける。
「例えば、普通の人生、ってどんなものだと思う?」
その言葉に、彼女は間髪を入れずに返す。
「今の生活そのものじゃない? あたしも、あんたも」
そんな。その言葉が、夢であればいいのに。けれど、それは夢じゃない。
こんなに退屈で、こんなにくだらなくて、こんなに無意味な、そんなものが。
今まで、私がずっと願っていたものは、そんな最低のものだったんだ。
私だって、もう幼い子供じゃない。今までも、何度もお別れは体験してきたし、「またね」という言葉も口にしてきた。けれど、今日は。
「……またね」
入道雲の立ち上る、音のない真夏。私は涙をこらえて、黒い縁取りの中で笑うおばあちゃんの写真を抱いてそう呟いた。
バスを降りると、響き渡るのは蝉時雨。
「やっぱ田舎だねぇ……」
畦道脇のバス停の椅子に荷物を置いて、私は周りを見回す。うん、まだ青い田んぼに、緑の山々、その向こうには白い入道雲が浮かぶ青い空。
「ま、街の方よりは涼しいよね」
確か、バス停の近くに小さな川があったはず。そこを通る風が、汗ばんだ肌を冷やしてゆく。
「しっかしまあ、変わらないもんだね……」
最近はもう、夏ぐらいにしか実家に帰ってきていないけれども、この風景は幼い頃から変わらないまま。
「さて。じゃあ、家に向かいますか」
誰にともなく、そう呟く。ここからは歩いて七分ぐらい。そこまでたいした距離じゃない。
そして、私は目を細めながら空を見上げた。
「ただいま、夏」
夏の日差しを受ける堤防の上、私たちは空を眺めていた。聞こえるのは蝉の声と小さな波音。
「暑いね……」
私の言葉に、彼女はこくん、と頷く。
「このままじゃラムネも炭酸抜けちゃいそうだし……」
またもや、こくんと頷く彼女。
「……イルカが……!」
その言葉に、彼女はぐん、と首を私の視線の先に向ける。
「……もういない……」
しょぼん、と表情を変える彼女。
「……あんた、あんまり喋らないけど本当に感情表現が分かりやすいよね」
そう言うと、彼女は首を傾げて『何が?』と言うような顔をする。それに、私は思わず笑みを浮かべる。
手元には、いつの間にか気の抜けてぬるくなったラムネ。そして隣には、無口な君。その間を、ふっと風が通り過ぎていった。