風が吹き抜ける。蒼く透明な、一陣の風が。
時刻は午後二時十八分。長かった夏も終わり、季節はもう冬。きっともう少し時間が経てばあっという間に日は暮れてしまうのだろう。そんな午後、堤防の上を、私はふわふわと歩く。
「……何か、極端な気候だよねぇ……」
つい数日前まで気温が二十度を超えていたと思えば、今日からは一桁台まで下がるらしい。多分そう遠くないうちに、雪が降ってもおかしくないぐらいまでは行くんじゃないかな。
「……体調崩れそうだ」
げんなりと呟いて、私は俯く。大きくため息を吐いてから、海の方を見やる。この時期にしては珍しく、穏やかな凪。その向こう、雲の切れ間。一条の日差しが海を照らす。
「天使の梯子かぁ」
呟いた瞬間、強い風が私の髪を乱す。それはまるで、最後の夏の名残のような蒼い風。思わず私は小さな笑みを浮かべる。
「……また来年、だね」
思い出したいことがある。それは、ずっと昔から。
「……本当に、これで思い出せるのか?」
目の前にあるのは、古ぼけたランタン。曰く、これを灯せば失われた記憶に光が当たる、『記憶のランタン』らしい。
「まあ、試してみるか」
思い出せないあの日――宵闇の迫る教室で、何故か俺は窓から飛び降りたらしい――のことを思い浮かべながら、俺はランタンに火を灯した。
「……ん」
その瞬間、周囲は闇に包まれる。やがて、その闇をランタンの灯りが緩やかに照らし出す。これは……。
「あの日の、教室?」
徐々に、緩やかに。遠くから記憶が蘇ってくる。
「……え?」
目の前に広がる光景に、俺は思わず目をしばたかせる。目の前で、俺は同級生の誰かの――誰かとしか言い様がない、大半の同級生の机が荒らされていたのだから。そして、そこにいるのは俺。そしてその手には、机や鞄から持ち出したであろう何かを持っていた。
それは、思い出したくもない風景。そうだ、俺はあのとき、『そう』していたんだ。
「……あ、あああああああっ!」
衝動的に、俺は走り出す。『俺』の元へ。そして、俺は『俺』の襟元を絞り上げて、開いていた窓へと、『俺』を放り投げた。
そして、はたと気付く。あの時、『これ』があったのだと。そして。
俺が、俺自身を窓から突き落としたのだと。
さらさらと、砂のこぼれる音がする。
「ふぅ……」
テーブルの上のティーポット、それと、流れていく砂時計をちら、と見て、私は窓の外へと目を向ける。そこにあるのは、柔らかな夕陽に照らされた庭。やっぱり冬も近づいてくれば、陽が落ち始めるのも早い。
「……ん」
テーブルの上の砂時計はもうすぐ落ち切るようだ。私は、早くなった夕暮れを、過ぎ去っていく秋を感じながら、カップに紅茶を注いでゆく。
八月三十一日、午後五時。海から吹く風は少し冷めて、穏やかに私の髪を揺らしていた。
「……夏、終わっちゃうね……」
明日からはまた、いつもと変わらない喧噪の中で過ごすのだろう。今までの何年も変わらず、これからもしばらくは同じように。
まあ、それにしても。
「本当に、今年の夏も何にも出来なかったな……」
思い返してみても、今年の夏も何も新しいことなんて出来なかった。やってみたかったことも、変えてみたかったことも。出来たことなんて、結局は朝ゆっくり起きて、蝉の騒がしい昼はエアコンの効いた部屋でごろごろと転がって、星空に虫の声が消えていく夜は扇風機の前でとうもろこしをかじって、明日こそは、と思って布団を蹴っ飛ばして寝て、それの繰り返しだ。
「……でもさ」
ふと思う。
これは、きっと何でもなくて、だからこそ、大事な毎日なんだろうな、と。……かと言って、自堕落な生活を続けていい、って言い訳にはならないだろうけど。
けど、それでもいいんだろうね。
小さく、誰にも届かないくらいに小さく呟いたその言葉は、一瞬吹いた強い風に流されて、空へと消えていった。
いつからだろう、何の変哲もない『普通の人生』に憧れ始めたのは。
思えば、私の人生は例えて言うならば荒波を越えるようなものだった。具体的に言うと古傷を抉るようなものだから、言うつもりもないけども。だからこそ、私は普通の人生を希っていた。
「……ねえ」
「何?」
時刻は午後二時十三分。夏空の下、屋上で。私は隣に座ってグラウンドを眺めている彼女――確か、保育園の頃からの付き合いだったか――に声をかける。
「例えば、普通の人生、ってどんなものだと思う?」
その言葉に、彼女は間髪を入れずに返す。
「今の生活そのものじゃない? あたしも、あんたも」
そんな。その言葉が、夢であればいいのに。けれど、それは夢じゃない。
こんなに退屈で、こんなにくだらなくて、こんなに無意味な、そんなものが。
今まで、私がずっと願っていたものは、そんな最低のものだったんだ。