『脳裏』
「ねぇ。いつになったら、僕のものになるの?」
――これは、夢だ。なぜ、そう確信するのか。だって、目の前にいる高身長の男性は、私の最推しだから。
「僕、結構本気なんだよ」
最推しが、私の頭を撫でてくる。めちゃくちゃ嬉しい。嬉しいけど。夢とはいえ、彼を推しているファンに、あまりに申し訳ない。
「……今から、虜にするから」
距離が近くなり、最推しの色気が漂ってくる。最推しは、私よりも年上である。
――チュッ。
最推しが、私に一つ、キスをしてきた。夢なのは分かってるのに、唇に感覚がある。
「……っ、はぁ。唇、やわらか……」
吐息混じりに言うから、夢なのに、身体が熱くなってくる。夢の中の最推しは、大人の色気で溢れている。
「顔、めっちゃ真っ赤。……興奮してきた?」
おでこをくっつけて、大きな手で私の頬を優しく触り、小さい声で尋ねる最推し。あの、やめて。これ以上は、ダメ。このままだと、狂わされてしまう。
「……可愛い」
最推しは一言言うと、私をゆっくり押し倒してきた。最推しの目は獣のようにギラついていて、男の顔だった。
「もう、我慢できない」
最推しの身体が、私にぴたりと密着してきた。あぁ、私、抱かれ、る――。
――チュンチュン。
「……っ! やっ、ぱり……」
朝を知らせるすずめの声がして、目を開けたら、自分の部屋のベッドの上。当然ながら、最推しはいない。つまりは、現実世界に帰ってきたのだ。
「分かってたけど、これが夢ってのはやばいなぁ……」
夢の最推しを思い出して、ボワッと身体が熱くなる。お色気ムンムンな最推しが、脳裏にがっつりと焼きついてしまっているのだ。
「……ずるい」
夢って、反則。しばらく、最推しをまともに見れそうにない。
『意味がないこと』
私が毎日やる行動。からっぽの湯のみを朝に十秒だけ、両手で持つ事。これを私は、子どもの頃からずっとやっている。それを見て、両親が、友達が、彼氏が、口を揃えて言うのだ。
「それ、何か意味があるの?」
その質問、答えましょう。この行動――ガチで全く意味がない! 子どもの頃からやっているが、湯のみを十秒持つだけで何かしらのおまじないとか気分転換とかになるわけではない。事実、湯のみを持っても、悪い事は普通に起きるのだ。飼い猫に手をかまれたり、風でスカートがめくれて見えたダサい下着を友達に見られたり、前の彼氏に大金を取られそうになったり。思い出すだけで、私は悲しい人生を送っている気がする。それでも、私は変わらず、目的とかなく、湯のみを持つのだ。
「君にとって、湯のみって何だろう」
湯のみを持つ私を見て、彼氏が言う。私にとって、湯のみは何か。そんなの、考えた事がないな。
「それが見つかったら、湯のみを十秒持つ事に意味が出るかもだよ」
彼氏がそう言うので、考えてみる。そういえば、子どもの頃、大好きなおばあちゃんがたい焼きを買ってくれて、それと一緒に、緑茶があって。おばあちゃんが持ってた湯のみに羨ましさを感じて、小さいおててで熱い湯のみに触れて、あちってなって――。
「……おばあちゃんの事、思い出しちゃった」
懐かしい記憶が脳内に流れ込む。湯のみで一緒にお茶を飲み、ほっこりした思い出。どうして私は、おばあちゃんとの思い出を忘れていたのだろう。おばあちゃんと過ごす時間は、とても楽しかったのに。
「おばあちゃん……」
「……湯のみは、思い出だね」
昔の記憶が流れている私の肩を抱き寄せ、頭を撫でてくれる彼氏。私の瞳からは、ぽろぽろと涙がこぼれてきたのだった。
――次の日も、私はからっぽの湯のみを十秒持つ。意味がない事でも、私はやりたい。思い出を繋ぐ、大切なアイテムだから。
『あなたとわたし』
あなたと私は、双子。髪型、服装、好きなもの、何でも同じ。あなたと私は、ずっと一緒なの。
「あれ? あの人、さっき通った気がするんだけど」
「えっ、もしかして、双子とか? やだぁ、そっくり!」
「そっくりどころじゃないよ。コピーでしょ、あれは」
通る人達が、私を見てコソコソ話。という事は、あの子はここを通ったのね。つまり、今いる場所は――。
「……えっ? 家で待っててって言ったのに」
私の前に現れたのは、穏やかそうな黒髪の若い男性。私を見て、目を丸くしている。
「あら、ごめんなさい。ちょっと用事を思い出しちゃって。すぐに終わると思って出てきちゃったの」
「用事? 用事って、何の?」
「……知りたい?」
私が腰をくねらせながら聞くと、男性は喉をごくりと鳴らし、私の腰を優しく抱えてきた。
「……用事、もうどうでもいいわ。それよりも、あなたと一緒にいたい」
私はそう言って男性の腕を引き、ホテルまで引っ張っていった。驚く男性に、「我慢ができないの」と、私は吐息混じりで話すのだった。
「……いい加減にしてよ」
――あら、何が?
「とぼけないで。また私の彼氏を誘惑したでしょ! いつまで経っても帰ってこないから連絡したら、もう君とは付き合えないって、一言。あんたの仕業でしょ!」
――あんな彼氏、あなたに必要ないわ。
「勝手に決めないでよ! あと少しで、彼と良いムードになれるってとこだったのに……! 双子の【片割れのフリ】をして人の彼氏を誘惑して食って、楽しいの?」
――食ってないわ。
「はぁ?」
――あなたの今までの彼氏達、私の身体を見ると、すぐに逃げ出すのよ。まぁ、さすがに【身体は同じじゃない】から、仕方ないんだけどね。
「ちょっと、何を言って……」
――『まだ』、なんでしょう? よかった。あなたを狙うチャンス、ずっと探してたの。あなたから「家に来なさい」って連絡が来て、すっごく嬉しかったんだから。
「いや、何するの……やめて……!」
――ふふふ、大丈夫よ。何も怖くないわ。これであなたと私は、一つになるの。さぁ、繋がりましょ?
「い、いやぁ……! 誰か、助け、て……!」
あなたと私は、双子。【凹凸】を合わせた、シアワセの双子なのよ。
『柔らかい雨』
雨は嫌いだ。空がどんよりしているし、湿ってるし、寒いし。そんな今日は、嫌いな雨の日である。
「……あーあ。うっかり忘れてた」
暗めのリビングにて、電気代の支払いの書類を見て嘆く。この前、コンビニで必ずしなきゃと思ってて、やったのは新商品のカップラーメンを買っただけ。つまり、私は鳥頭。
「……行くかぁ」
雨の日に出かけたくないが、支払いは待ってくれない。軽く支度をし、ビニール傘をさして、徒歩で近くのコンビニへと出かけた。雨は小降りだが、嫌なのは変わりない。
「はぁ。憂鬱……」
落ちた気分で、約十分後。雨でも明るいコンビニに到着し、自動ドアをするりと通った。茶髪の女性店員の元気な「いらっしゃいませ〜」の声で、少しだけ心の曇りが晴れた。
「すみません。支払いをお願いします」
傘を持ったまま、店員さんに支払いの用紙を渡す。私の対応をしてくれているのは、さっき元気な声を出した茶髪の女性店員だ。
「支払いですね。少々お待ちください!」
女性店員はせっせとレジの操作をして、すぐに支払い代金を表示させた。財布の中の小銭が多いので、ちょうどよくする為に小銭を探していく。
「……小雨の日の空を眺めた事ってありますか?」
小銭探しの途中、女性店員が私に声をかけてきた。女性店員は、話を続ける。
「私、雨の日って髪がぐしゃぐしゃになるから苦手なんです。でも、小雨の日の空だけは違くて。雨の日の空って厚い雲なんですけど、小雨の日の雲は少し薄めなんです。あと、薄い雲には、隙間があって……あっ、ごめんなさい。喋り過ぎました」
どうやら、近くにいたベテランそうな男性店員が、彼女を睨んでいたらしい。彼女は私がトレーに乗せておいたお金をすぐに受け取り、レシートを渡してくれた。
「ありがとうございました〜」
彼女に一瞥して、コンビニを出る。入り口の前で傘をさし、一歩前へ。その時に、目線が上にいった。雲は灰色なのだが、どこか青色が混ざっているように見える。
「あっ、あれかな……」
たまたまあった、雲の隙間。覗いてみれば、雲の上にある青空が顔を見せていた。まるで、わずかな希望のようだ。
――言いたかった事、分かったかも。
雨の日を好きになるのは、まだ時間がかかりそう。でも、小雨だけは許せるかな、なんて。
「……ちょっとだけ、ゆっくり帰ろうかな」
歩幅を狭くして、道を歩く。嫌な心をほぐす、柔らかい雨の日の話。
『一筋の光』
今、俺は夜の家の中をコソコソと歩いている。中年のおっさんだが、身体は小柄だから、歩く音は小さいんだ。
「くーっ……くかぁー……」
リビングを歩いている途中にいたのは、ソファーで寝ちまっている、俺よりも若い男。背が高くて、細くて、おまけにイケメン。ふんっ、別に羨ましくないぞ。俺にだって、ちっちゃいなりの可愛さがあるんだからな。
――おっ、月が出てらぁ。
キッチンまで歩けば、窓から月の優しい光が一直線に床まで差し込んでいた。俺はすぐにほんのりと明るい所まで歩き、ちょこんと立った。淡い一筋の光が、俺だけのスポットライトのようだ。
――こういう光が好きなんだよな。
俺は太陽みたいに眩し過ぎる光は苦手だ。目が痛くなるし、夜が好きな俺には似合わない。弱くて、優しくて、品のある。そんな月の光が、俺の好み。
――今夜は、満月か。
窓に映る小さい月は、綺麗な丸で。これがお月見だったら、最高なんだよな。そう思っていたら、後ろから、太陽よりかなり弱いけど目が痛くなる光が後ろから照らされた。目の前の棚にはくっきりとした俺の影があって、バカだなぁと笑っているように見えた。――あぁ、そうだよ。チェックメイトだよ。
「やっぱりここにいた! もう! 逃げ出しちゃダメでしょ!」
声の主は、さっきまでソファーに寝ていた若い男。男は両手で俺を包み込むように素早く捕まえて、リビングにある小さい家に戻された。
――あーあ。まだ見ていたかったのに。
小さい家の視点でも、キッチンの床を照らす月の光は見える。だが、キッチンから見るよりも感動がなくて、イマイチだ。
「全くもう。ここ最近は逃げなかったから、夜に探し回るとかなくてホッとしてたのに。油断も隙もないなぁ」
男は困った顔で俺を見て、そう言った。そりゃそうだ。俺が逃げ出すのは、晴れた夜空の月を見たいからで。淡い一筋の光に照らされながら、このつぶらな瞳に月を映したいのだ。それだけで、俺は自由を感じるんだよ。
――明日の夜も、晴れるといいな。
そう思いながら、俺はキッチンを見つめた。木くずの床が、少しだけあったかかった。