【秋恋】
———秋に始まる恋を、秋恋って言うんだって。
会社の同期で親友の美咲が、少し前に会社帰りに寄った居酒屋で言っていた。入社して半年経った秋ごろ、配属先で一目惚れをしたらしい。
そこから2年。美咲は一目惚れの彼を見事に捕まえて、今日、結婚式場のウェディングベルの音に2人は祝福され、結ばれた。
本当に幸せそうに笑い、そして愛おしそうに彼を見つめる美咲を見て、なんだかとても温かい気持ちになった一日だった。
結婚式と披露宴、2次会を終え、お開きになった帰り道。初めは大人数でぞろぞろと帰っていたけれど、1人、また1人と別れていき、最終的に私と、同期の恵太だけになった。
私と美咲と恵太はよく社内のイベントなどで一緒に行動することが多く、社内でも特にこの2人は1番心の許せる同期であり、友人だった。
「今日の結婚式すごく素敵だったね」
「だな。美咲の結婚相手が、藤田主任だって知った時は驚いたよ」
「ふふ、一目惚れだったんだって」
「へぇ…美咲の?」
「ううん、どっちも」
恵太は面白いものを聞いたと笑う。そこから他愛もない話をしながら帰路に着く。時折秋の夜の冷たい風が吹いてきた。
———くしゅんっ。
秋の夜は寒い。昼間は少し暑いくらいだったから、羽織るものを持参するのを忘れた。今日のために新調したドレスは生地が少し薄手なので、冷える。
私が腕をさすりながら歩いていると、突然肩に鈍い重みと程よい温かさを感じた。見れば、恵太が自分の着ていたコートを私にかけてくれていた。
「え、悪いよ…!」
「寒いでしょ。着てなよ、それ」
恵太の方こそ寒いだろうと思い、コートを返そうと手をかけるけれど、恵太が「俺、さっきお酒飲んで暑かったからコートないくらいがちょうどいい」なんて言うから、返す口実がなくなってしまう。
「…ありがとう」
お言葉に甘えて、しばらくコートを借りることにした。なんだか少し照れ臭くなって俯くと、ふわっと恵太の香水の匂いがして、思わず顔が熱くなる。
結婚式の幸せそうな2人を見たからだろうか。
美咲に彼氏ができてから久しく飲んでいないお酒を飲んだからだろうか。
それとも、仕事用の落ち着いたものではなく、少し明るい色合いのスーツを着た恵太を見慣れないからだろうか。
なんだか暑いけどきっとコートのせい。
秋の夜の涼しい風が頰を撫でる。胸の鼓動の高鳴りもなんだかすごく心地よかった。
【愛する、それ故に】
出囃子が鳴り、まばらな拍手と共に舞台へ飛び出す。薄暗い会場でライトに照らされた舞台は、なんだか宙に浮いた不思議な空間のようで好きだった。
舞台の中央にあるサンパチマイクの高さを合わせ、僕らは身を寄せ合うようにしてマイクに顔を近づける。
「どーもー、ハマチトロロですー。よろしくお願いしますぅ」
平日の真っ昼間の劇場は、人が少ない。僕らの漫才は、まだあまり笑ってもらえなかったり、首を傾げられたりすることもあるけれど、僕は今ここに立っていられて本当に幸せだと常々思っている。
昨日、相方の鈴山から渡された新ネタを飛ばさないようにと緊張しながら話していると、隣では大きい動きと共に盛大にボケる相方を見て、僕もつい笑ってしまう。
「お前…何わろてんねん!」
ボケの鈴山が僕に思わずツッコめば、客席も釣られたかのように笑い出す。その笑い声に乗せられたかのように鈴山のボケはどんどん派手になり、ここ数ヶ月で1番笑いを誘えたのではないかと思うほどの盛り上がりだった。
僕らは漫才を披露し終えると、挨拶をして舞台袖へはけた。
「鈴山、すごいよ。最近で1番ウケてた!」
「へへ。でも、今日のはダメや。まだネタも粗いし笑いどころも分かりにくい」
喜びもそこそこに鈴山は反省を始め出す。
「吉田、今日のネタは昨日渡したやつやけど、ちゃんと飛ばさず覚えてきたのは上出来。けど、途中で笑うのは想定外。しかも噛んでたしな」
鈴山が指摘した一つ一つを、僕はネタ帳に書き留める。
「やっぱりできたばっかのネタはブラッシュアップが足りないから粗いな…もっと言い方にも拘らんと…あー、でも…吉田の笑いと俺のツッコミで笑いどころが分かりやすくなってんけどな…」
ぶつぶつと鈴山の口は止まらない。鈴山はどこまでもストイックだった。こういうところに惹かれ、憧れた。
「お前にはついていけない」と、地元から一緒に芸人を志した友人は実家へ帰った。
「お前とはやっていけん」と、東北の田舎から東京に出てきた相方には別れを告げられた。
そして、出会ったのが鈴山だった。
鈴山は、大阪から東京に出てきて、養成所ではなかなか苦戦していた様子だったが、タフで諦めなかった。そして、笑いを愛する、それ故にストイック。そういうところが気に入って、思わず「コンビを組んでくれないか」と声をかけていた。
「吉田ぁ、そろそろ行くぞ」
一旦思いつく限りの反省点を出し終えた鈴山は楽屋へと歩き出す。僕らはこの後、いつもの喫茶店で反省会第二弾、今日のネタの練り直しをする予定だ。
僕の夢は、賞レースで名を残した猛者ばかりが立つ東京や大阪の中心にある大きい劇場で漫才をすること。鈴山の夢は、賞レースで優勝した後に地元で凱旋ライブを開催すること。
共に僕らの目指す先は、賞レース。どれだけ険しい道になるかは分からない。険しくて辛くて投げ出したくなるような日々になると思う。
けれど、鈴山となら———。
僕は、鈴山と出会って文字だらけになったネタ帳を懐へしまって、楽屋へ駆け出した。
笑いを愛するものは、笑いに愛される。
のちに、僕らハマチトロロが、賞レースの準決勝に運良く進出し、話題の新星としてほんのちょっぴり取り上げてもらえるようになるのは、少し先の話。
【moonlight】
街の光が輝くこの夜。月明かりの甘い光が僕を包みこむ。
僕は、夜の音が好きだった。
夜、ベッドに横になって瞼を閉じたとき、少し開けた窓から時折聞こえる車の走る音。街が眠った静かな夜の中、眠ってたまるかと抗い、まだ活動している者の存在を感じて好きだった。
だけど、眠れなくなってからは大好きだった夜の音が煩わしく感じるようになり、朝の小鳥のさえずりに焦燥感を覚えるようになった。
「無理に眠らなくていいんじゃない?」
君が僕にそう言うまでは。
眠ることが大好きな君にとって、夜遅くまで僕に付き合うことはどれほど大変だっただろう。だけど、君は「気にしないで」と笑って、僕が焦らないように、落ち込まないように、夜のこのひと時を楽しんでいた。
薄暗い寝室でスクリーンに映して映画を見た。ふかふかの布団と君の手の温かさに安心した。
温かいココアを一緒に飲んで夜の街を眺めた。冷えた心をココアの甘さと君の笑顔が溶かしてくれた。
そうして君と過ごしていると、ひどく安心して不眠に悩まされていたのが嘘のようにゆっくりと眠りに落ちることができた。
「今日も眠れない?じゃあ、ドライブしようよ」
今日も君は嫌な顔ひとつせず、僕に笑いかけた。
君を助手席に乗せ、静かな夜に出かける。スウィングジャズを聴きながら、あてもなく夜の街走り出す。
大好きだった夜の音の一部になった心地よさと、ジャズを口ずさむ君の歌声がくすぐったかった。
街の光が輝くこの夜。月明かりのまばゆい光が僕らを包みこむ。今日もよく眠れそうだ。
【今日だけ許して】
僕が魔法少年として日本の平和を守っていることはさておき。
来週は僕の通っている高校で修学旅行がある。
うちの学校は文武両道を掲げているから、学校行事も部活も全力だし、宿題も多い。来週からの修学旅行へ行くためには、明日までに学校の宿題を提出しきらなければいけない。
現在、PM9:00———。
宿題は終わっておりません。
修学旅行を物凄く楽しみにしている僕にとってこれは死活問題。今日は徹夜をしてでも宿題を終わらせて、何とか明日提出をする。そう意気込んで、さっきコンビニで買ってきたエナジードリンクを飲み干した。
それから黙々と宿題を進め、PM11:00———。
残すは数学と英語のワークのみ。
量としては、全部で20ページ。
「ふふ、実に順調…順調だぞぉ…」
あまりに順調にことが進んでいるので、嬉しさのあまり心の声が漏れ出る。
調子がいい時ほど注意だぞ、僕。
上手く行っているときほど慎重にだぞ、森永ハルタ。
———ピリリッ!ピリリッ!
調子良く筆が進んでいた矢先、けたたましく僕の携帯に着信がはいる。
着信元は、【青少年魔法対策支部】。支部長の永谷さんからだった。
嫌な予感はしたんだ。腹を括って僕は着信に出た。
「…はい、森永です」
『永谷だ。ハルタに出動命令が出ている』
「直ちに出動します。場所は?」
『話が早くて助かる。お前の家の近所の星町公園で怪物が出現。急いで現場に向かってくれ』
「らじゃー!」
通話を切ると、僕は変身道具のヘッドホンを引き出しから取り出した。ヘッドホンを装着して「おしおきチェンジ!」と声を上げると、あっという間に僕の体は光に包まれ、戦闘服に変わる。水色と緑色を基調とした、ジャケットとハーフパンツ。動きやすいけれど、少しフリルがついて可愛らしい見た目なのは気に入らない。けれど、戦闘服はかなりの防御力を、グローブはパンチ力を、ブーツはキック力と空を駆ける力を持つ、とてつもなく便利なものだった。
僕は窓から夜空へ駆け出す。星町公園は僕の家のほぼ真裏にある、小さい頃からよく遊んだ公園だ。
公園を上空から見渡すと、確かに怪物はいた。かなりサイズは小さいが。
公園に降り立って近づいていくと、その怪物は小さい犬くらいの大きさで、口には牙があった。コウモリのような羽と尻尾を持つ毛玉のような見た目をしていた。
「今日の仕事、楽勝じゃ〜ん!」
とてつもなく大きくて強い怪物が出たらどうしようかと思っていたけれど、これならすぐに倒して宿題の続きができそうだ。
早いところ倒してしまおう。
もふもふとした怪物の尻尾を掴み、「おしおきパンチ」を繰り出そうと腕を構えていると、突然———。
「やめて!」
後ろから叫ぶように声が聞こえ、僕の腕に衝撃があった。思わず僕は怪物の尻尾を離してしまう。
「何するんだよ!」
「だって、弱いものいじめなんて可哀想じゃないか!」
「これは弱いものいじめじゃなくて、れっきとした怪物退治なんだっ———あれ?」
僕の腕にしがみついていたのは、僕の幼馴染で、同じクラスの岡本ユウトだった。すごく真面目で頭が良くて、漫画で見るようなインテリ系。学級委員長で黒縁の眼鏡もかけている。塾のテキストの入ったカバンを持っているから、塾の帰りか何かのようだった。
この状況はまずい。魔法少年の正体がバレることは別に問題視されていないのだけれど、こんな可愛らしい格好をしている僕を見られるのは恥ずかしい。これも死活問題だ。
僕がサッと顔を逸らすと、ユウトは僕に構うことなく、怪物のそばでしゃがみ込む。もふもふの頭を撫でて「危なかったなぁ、お前」なんて、呑気なことを言っては戯れあっている。
「ふふ、くすぐったいなぁ」
「お前、そいつが凶暴じゃないからと言って油断してると危ないんだぞ!」
油断しかしてないユウトが心配になって、怪物の方を向くと、怪物はユウトの指をペロペロと舐めているようだった。
サッと血の気が引く。ユウトの肌色の指に赤い線が見える。
「お前、その指…」
「あ、これ?今日ノートで切っちゃったんだ。でもこの子が舐めてくれるみたいで」
小さい怪物は一見、穏やかで危害がないように見える。だけど、ただ1つ注意がある。
———血を吸うと、凶暴化する。
「離れろ、ユウト!!」
「えっ…うわぁっ!」
怪物は瞬く間に大きく膨らみ、ユウトの血をさらに吸おうと飛びかかった。このままではユウトが食べられてしまう。
僕は大きく真上に飛び上って狙いを定め、「おしおきキック」を繰り出した。蹴りが入れば怪物は呻き声をあげながら、キラキラと星屑を出して、消えた。
「大丈夫か?ユウト」
「う、うん…大丈夫…」
ユウトに怪我がないか確認をする。ユウトは困惑しながら頷いた。
「助けてくれてありがとう…ハルタくん」
「は、はるたぁ!?誰それ!人違いじゃないですかぁ!?」
「ふふ、ハルタくんってば面白い。このお礼は必ずするからね」
「う…本当に違うからな!じゃあな!!!」
ユウトは面白そうに楽しそうに笑っている。正体がバレた恥ずかしさで居ても立っても居られなくて、僕は再び夜の空を駆け出した。
家に帰ってくれば、AM1:00———。
果たして宿題は終わるのだろうか。絶望している暇はない。僕はヘッドホンを外して変身を解いて机に向かう。
僕の戦いはこれからだ。
そして、黙々と宿題を進めAM7:00———。
残すは英語のワークのみ。残り5ページ。
タイムリミットだった。
僕は登校して教室に入るなり、既に登校しているユウトを見つけた。ユウトは僕に借りがある。僕は最後の望みをかけてユウトの元へ向かった。
「ユウト、お願いがあります」
「何?ボクに出来ることなら。ふふ、昨日のお礼もまだだしね」
「う…あのさ、宿題!写させてください!」
「絶対ダメ。それじゃ、ハルタくんの為にならないでしょ」
食い気味に、ユウトはピシャリと断った。
———ハルタくんの為にならない。
普段だったら、そう。宿題は自分のためにやるものということは、僕だって分かっている。たとえ遅れたとて普段であれば自分の力で仕上げていた。
だけどだけど、今回だけは…修学旅行がかかっている。
僕はユウトの前で床に膝をつき、大きく頭を下げて、大声で頼み込んだ。
「お願い!今日だけ許してぇ!」
【誰か】
今日は虫の居所が悪かった。
楽しみにしていたライブのチケットはご用意されなかったし、大学の友達とはほんの些細な原因で喧嘩。
すごくむしゃくしゃしていて、綺麗な空気でも吸ったらデトックスにでもなるかなと思って、1人で実家の近くの山に来た。
———黄昏時に1人で山に入っちゃいけないよ。
小さい頃におじいちゃんが何度も言っていたのは覚えている。山の神さま的なものが住んでいて、黄昏時は沢山そういうのが動き出す時間だからとか、なんとか。神隠しにあうからとか、なんとか。
秋は陽が落ちるのが早い。まだ午後5時前なのに、想像以上に山の中は暗くて焦る。流石におじいちゃんの話を信じているわけじゃないけれど、この薄暗さは心細い気持ちになる。何より、熊や猪などの物理的な不安もあった。
———ガサガサッ。
「ひっ……!なんだ、鳥か…」
突然背後から鳥が飛び立ち、心臓が跳ね上がった。
「もー…脅かさないでよ!」
驚かされたことへの苛立ちもあり、怖い気持ちを紛わせようと、鳥が飛び立った茂みに向かって足元のゴツゴツした石を思い切り蹴飛ばした。
———ゴッ。
「やばっ…」
何かに当たる音がした。慌てて何に当たったのか確認するため茂みの方へ向かうと、自分の蹴った石の他に複数の石が転がっていた。
よく見ると、お札のようなものを貼った木の台みたいなところの上に薄く平たい石が2つ積まれており、その周りにもう2つほど似たような形の石と縄が散らばっていた。
「これ…積んであったのかな…」
何となく元に戻した方がいい気がして、石と縄を拾い上げた。すると、突然背後から音がした。よく耳を済ませないと聞こえないけれど、何となく人の声のようだった。
「おーい。だれかぁ」
聞こえるのは微かだが、自分の父親くらいの年の、男の人の声だった。
もしかして、これ、バレたらまずいんじゃないかな。怒られるかも。私は慌てて、でもそっと崩れないように石を積んで、縄をかけた。
「おーい。だれかぁ」
さっきよりも近い。誰か探しているのかな。
「おーい。だれかぁ。おーい」
少しずつ声が近づいてくる。はっきりした声、でも何となく心がこもってないような棒読みにも聞こえる。動物が、意味を分からずに人の真似をして声を出しているような感じがして、なんだか薄気味悪かった。
「ど、どうされましたかぁ!」
思わず声をかけてみた。ずっと聞こえていた声は突然ぴたりと止まり、静寂が訪れる。
「な、なんだったんだ…?」と不思議に思っていると、聞こえてくる男の声が一気に近づいた。
「おーい、おーい。だれかぁ。おーい。おーい。だれかぁ。おーい」
「ひっ…!」
男の声は、言葉を何度も繰り返している。
早く家に帰ろう。私は怖くなって、その場を離れた。急いで山道を下っていくけれど、男の声はずっと聞こえる。距離も全然離れる気がしない。
「もしかして、追いかけられてる…?」
不審者かもしれない。怖くなって歩くスピードをあげる。それでもまだ聞こえてくる。
「おーい、だれかぁ。おーい。だれかぁ。おーい」
「やだ!追いかけてこないでよぉ!」
心臓がバクバク鼓動する。息が上がる。
怖い。怖い。怖い。
私は走り出す。とにかく早く。この場から逃げよう。
入ってきた時に通った山の登山口に辿り着く。道路のアスファルトが見えると少し安心した。さっきまでしつこく聞こえていた男の声ももう聞こえない。恐る恐る振り返ってみるけれど、何もいなかった。
「ここまでくればもう大丈夫かな…」
膝に手を置き、走って上がった呼吸を整えた。来る時に使った自転車もすぐそばにある。すごく不気味で怖かったけれど、ここまできたらもう安心だ。
夕方は変な人が山にいるから、おじいちゃんは私が山に入らないように脅かしてくれてたんだろうな。信じていなかったのを申し訳ない気持ちになり、私は帰ったらおじいちゃんに謝ろうと思った。
自転車に手をかけた。ふともう一度山の方へ目をやると、薄暗い茂みの中にうっすらと影があった。何だろう、と目を凝らして見ると———。
「きゃぁーーーっ!!」
私は叫んだ。
そこにいたのは、首を不自然なくらい真横に90度に曲げた人。でもたぶん人じゃない。猿みたいに顔に毛が生えていて、目が血走って白目の部分が真っ赤で、にたにた笑った口が暗闇のようだった。
「おーい。だれかぁ」
さっきの不気味な声がもう一度聞こえた。
逃げよう。慌てて自転車にまたがった。一度ペダルを見て足を置いてから、前を向く。
———目の前に、その男が立っていた。
男のしわしわの手が伸びてくる。肩を力強く掴まれた。そして、人ではないそれの、真っ暗な口が迫ってくる。
「やだ…食べないで…いや…だれか、だれか助け———」
黒い闇にのまれ、意識が途絶えた。