尾仁ぎり

Open App

【誰か】

今日は虫の居所が悪かった。
楽しみにしていたライブのチケットはご用意されなかったし、大学の友達とはほんの些細な原因で喧嘩。
すごくむしゃくしゃしていて、綺麗な空気でも吸ったらデトックスにでもなるかなと思って、1人で実家の近くの山に来た。

———黄昏時に1人で山に入っちゃいけないよ。

小さい頃におじいちゃんが何度も言っていたのは覚えている。山の神さま的なものが住んでいて、黄昏時は沢山そういうのが動き出す時間だからとか、なんとか。神隠しにあうからとか、なんとか。

秋は陽が落ちるのが早い。まだ午後5時前なのに、想像以上に山の中は暗くて焦る。流石におじいちゃんの話を信じているわけじゃないけれど、この薄暗さは心細い気持ちになる。何より、熊や猪などの物理的な不安もあった。

———ガサガサッ。

「ひっ……!なんだ、鳥か…」

突然背後から鳥が飛び立ち、心臓が跳ね上がった。

「もー…脅かさないでよ!」

驚かされたことへの苛立ちもあり、怖い気持ちを紛わせようと、鳥が飛び立った茂みに向かって足元のゴツゴツした石を思い切り蹴飛ばした。

———ゴッ。

「やばっ…」

何かに当たる音がした。慌てて何に当たったのか確認するため茂みの方へ向かうと、自分の蹴った石の他に複数の石が転がっていた。
よく見ると、お札のようなものを貼った木の台みたいなところの上に薄く平たい石が2つ積まれており、その周りにもう2つほど似たような形の石と縄が散らばっていた。

「これ…積んであったのかな…」

何となく元に戻した方がいい気がして、石と縄を拾い上げた。すると、突然背後から音がした。よく耳を済ませないと聞こえないけれど、何となく人の声のようだった。

「おーい。だれかぁ」

聞こえるのは微かだが、自分の父親くらいの年の、男の人の声だった。
もしかして、これ、バレたらまずいんじゃないかな。怒られるかも。私は慌てて、でもそっと崩れないように石を積んで、縄をかけた。

「おーい。だれかぁ」

さっきよりも近い。誰か探しているのかな。

「おーい。だれかぁ。おーい」

少しずつ声が近づいてくる。はっきりした声、でも何となく心がこもってないような棒読みにも聞こえる。動物が、意味を分からずに人の真似をして声を出しているような感じがして、なんだか薄気味悪かった。

「ど、どうされましたかぁ!」

思わず声をかけてみた。ずっと聞こえていた声は突然ぴたりと止まり、静寂が訪れる。

「な、なんだったんだ…?」と不思議に思っていると、聞こえてくる男の声が一気に近づいた。

「おーい、おーい。だれかぁ。おーい。おーい。だれかぁ。おーい」
「ひっ…!」

男の声は、言葉を何度も繰り返している。
早く家に帰ろう。私は怖くなって、その場を離れた。急いで山道を下っていくけれど、男の声はずっと聞こえる。距離も全然離れる気がしない。

「もしかして、追いかけられてる…?」

不審者かもしれない。怖くなって歩くスピードをあげる。それでもまだ聞こえてくる。

「おーい、だれかぁ。おーい。だれかぁ。おーい」
「やだ!追いかけてこないでよぉ!」

心臓がバクバク鼓動する。息が上がる。
怖い。怖い。怖い。
私は走り出す。とにかく早く。この場から逃げよう。
入ってきた時に通った山の登山口に辿り着く。道路のアスファルトが見えると少し安心した。さっきまでしつこく聞こえていた男の声ももう聞こえない。恐る恐る振り返ってみるけれど、何もいなかった。

「ここまでくればもう大丈夫かな…」

膝に手を置き、走って上がった呼吸を整えた。来る時に使った自転車もすぐそばにある。すごく不気味で怖かったけれど、ここまできたらもう安心だ。
夕方は変な人が山にいるから、おじいちゃんは私が山に入らないように脅かしてくれてたんだろうな。信じていなかったのを申し訳ない気持ちになり、私は帰ったらおじいちゃんに謝ろうと思った。

自転車に手をかけた。ふともう一度山の方へ目をやると、薄暗い茂みの中にうっすらと影があった。何だろう、と目を凝らして見ると———。

「きゃぁーーーっ!!」

私は叫んだ。
そこにいたのは、首を不自然なくらい真横に90度に曲げた人。でもたぶん人じゃない。猿みたいに顔に毛が生えていて、目が血走って白目の部分が真っ赤で、にたにた笑った口が暗闇のようだった。

「おーい。だれかぁ」
さっきの不気味な声がもう一度聞こえた。
逃げよう。慌てて自転車にまたがった。一度ペダルを見て足を置いてから、前を向く。

———目の前に、その男が立っていた。

男のしわしわの手が伸びてくる。肩を力強く掴まれた。そして、人ではないそれの、真っ暗な口が迫ってくる。

「やだ…食べないで…いや…だれか、だれか助け———」

黒い闇にのまれ、意識が途絶えた。

10/4/2025, 12:37:50 AM