尾仁ぎり

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10/2/2025, 11:53:57 PM


【遠い足音】

今日が来なければ良いと思った。

待ち合わせスポットの駅のステンドグラス前は人でごった返している。人の多さに圧倒されていると、人だかりの中から一際明るい桃色のワンピースの少女がこちらへ駆けてきた。

「お待たせ、颯人くん」

現れたのは同級生の川本咲良。肩まで伸ばした黒髪が呼吸で上下する。今流行りのブレスレットをつけた華奢な細い腕が、人に押された勢いで俺の腕に少し触れた。そんな些細なスキンシップで跳ね上がる心臓に嫌気がさす。

「その服…」
「お気に入りなんだ〜!いいでしょ?」

咲良は自慢げにくるりとその場で一周まわった。俺の好きな桃色がふわり、と揺れた。

「…すごく、似合ってる」
「ふふ。ありがと!」

咲良が着ているのは以前、俺が好きだと言った色の服。自分の都合の良いように勘違いしてしまいそうだ。今日は自分の気持ちに別れを告げるつもりで来たのに、もう心が折れそうだった。

「さ、行こっか」

咲良は無邪気に俺の手をひき、ゆるゆると歩き出す。触れられた腕が、まるで自分のものじゃないみたいにそこだけ熱い。何度も何度も捨てようとしているのに、この『恋』いう気持ちは俺の元へ飄々と戻ってきてしまう。

高校に入るまでは、恋をすれば世界が輝いて見えるんだと思っていた。日常の何もかもが楽しくて、明るい気持ちになれるんだと思っていた。けれど咲良に出会ってからは、恋は、現実はこんなに辛いものなんだと、まざまざと思い知らされた。



「この服とかどうだ?似合いそうだぞ」
「ほんと?じゃあ、買っちゃおうかなぁ」
咲良は選んだコートを体に当てる。
「男の子から見て、この服ってどうかなぁ?か、可愛いとか…思ってもらえるかなぁ?」
「ああ、いいと思うぞ」

すごく、可愛らしいと思った。そんな気持ちを素直に出せたらいいのだけれど、この関係を崩すのが怖くて言葉を飲み込む。
だって今、こんなに真っ直ぐ俺を見てくれているのに、咲良の中では俺ではない、ヤツとのデートを想像しているのだから。
「いいの見つけちゃったぁ」と、ニコニコと笑いかけてくれるけれど、咲良は俺ではない、ヤツのことを想っているのだから。

収穫のあった咲良は上機嫌で会計を済ませ、俺たちは帰路につく。浮かれた足取りで並んで歩く咲良を見ながら、改めて今抱く特別な感情を再認識した。

高校に入学して隣の席だった咲良。いつも明るくて元気で、コロコロと表情が変わるところが可愛かった。親しみやすい性格で、周りを気遣ってくれるところに惹かれた。咲良から日曜日に遊びに誘われて、学校じゃ知らない咲良の一面を知る機会が増えて、どんどん好きになった。1番仲がいいのは自分だと自負していた。そして俺にとって、いつしか咲良は特別な存在になっていた。

だけど、咲良にとって俺は特別でもなんでもなかったんだ。

思い知ったのは先週の日曜。部活の練習試合の帰り道、道路の向かいで仲睦まじく並んで歩く男女が目に留まった。見覚えのある黒髪、聞き覚えのある声。歩いていたのは咲良と、同じクラスの『ヤツ』だった。そして、咲良は楽しそうに笑いつつも、時々恥ずかしそうに顔を赤らめていた。見たことのない表情に、俺は喪失感を覚えた。

実際、今日一日一緒にいて痛いほどわかった。俺の心の中心には咲良がいるけれど、咲良の心の中にいるのは俺じゃない。俺じゃ、なかったんだと。

「颯人くん、今日は買い物付き合ってくれてありがとう!」

咲良の家が数メートル先に見えてきた頃、咲良はそう言って無邪気に笑って見上げてきた。目が合うだけで自分の頬が熱くなる気がする。こんなんで気持ちに区切りつけられるのかよ、と俺は自虐的に少し笑う。

「これで、ヤツとのデートも上手くいくんじゃないか?」
「えっ…」

俺がそう言うと、咲良はきょとん、とした後、ぶわあっと顔が赤くなった。初めて見た、そんな顔。

「好きなやつ、出来たんだよな…?」
声が震える。俺は咲良の顔をもう見れなかった。
小さく咲良が「…うん」と頷くと、さっきまで温かかった心臓がスッと冷えるような気がした。
覚悟はしていたのに、視界がほんの少しだけ滲んでくる。

「…ごめんね」
「何謝ってんだよ…でも、ありがとな」
「え?」
「むしろモヤモヤが晴れてスッキリした。俺、お前のこと応援してる。だから———」

咲良の家まであと少し。いつもならもう少し話していたくて、この距離がもどかしかった。いつもなら少しでも一緒にいたくて、歩幅を合わせて歩いていた。だけど、今日は情けないけれど、力を入れた顔を覗き込まれたくなくて早足になる。少しずつ歩幅がずれ、距離が離れていく。足音が遠くなる。

気まずくならないように、と俺は気づかれないように大きく息を吐いて振り返る。咲良と目があった。俺じゃないヤツのことを考えて紅潮した頬。恥ずかしさから潤んだ瞳。もう俺の入る余地なんてないんだと突きつけられた。

ああ、さっきまであんなに近くに感じていたのに、今は———。
なんだ、俺。全然諦められてねぇじゃんか。
熱くなる目頭にグッと力を入れて、笑う。

「何かあったら言えよな。相談に乗ってやるから」
「うん…ありがとう」

咲良はいつもと同じ表情でふわりと俺に笑いかけた。
この笑顔が好きだった。だから、この笑顔が壊れてしまわないように俺は守っていきたかった。
近いのに、遠い。もう一度歩幅を合わせて歩くけれど、咲良の足音が、声が、全てが遠く感じる。

今日、俺はこの気持ちに蓋をした。
ばれないように、悟られないように。
きっと大丈夫。きっと上手くやっていける。

大きく深呼吸すると、冷たい風が肺を冷やす。胸の奥がずきん、と痛んだ。

10/1/2025, 3:20:53 PM

【秋の訪れ】

「あれぇ?俺のネクタイどこだっけ」
夫の和人が半端に着たワイシャツで慌しくクローゼットを漁っている。

朝食を終え、食器を洗いながら私は声をかける。
「ネクタイなら中のタンスの1番上の引き出しに入ってるよ」
「…おぉ、あったあった。ありがとう」
和人はネクタイを見つけると、シュルシュルと慣れた手つきでネクタイを締めた。

昨日までワイシャツ一枚で通勤していたのに、今日はネクタイを締めて、ジャケットも持っていくだなんて、いったい——。

「今日、何か大事な会議でもあるの?」
「いや?クールビズ昨日までだから。今日からネクタイとジャケット着用なんだよね」
「あぁ、なるほどね」

会社を退職して約1年、すっかり会社員の感覚を忘れてしまっていた。
そうか、今日から10月か。もう秋か。どうりでここ最近の夜はクーラーなしでも眠れるくらい涼しいわけだ。思い返せば、昨夜は少し開けた窓からもリーンリーンと可愛らしい虫の音が心地よく聞こえていた気もする。
ついこの間まで暑さが残ってまだ夏のようだったのに、いつの間にか秋の訪れを感じる。

朝の情報番組に目を向けると、ゲストのタレントが栗や芋のスイーツを美味しそうに食べてはコメントをしている。ブラウンやイエロー、ワインレッドなど色とりどりのカーディガンやシャツを着ていて、画面の中もすっかり秋色だ。

「そろそろ行ってくる」
会社へ向かう和人を見送りに玄関へ行く。
「忘れ物ない?」と私が尋ねれば、にやにやと和人は笑って「だいじょーぶ!」と答えた。

以前まで同じ会社に勤めていたので、出発が同時で叶わなかった。だけど、私が退職してからは毎日このやり取りをしている。和人にとってずっと憧れていたやり取りだったらしく、当分このままだ。

「行ってらっしゃい」
「2人とも、行ってきます」
和人は柔らかく笑い、私の大きくなったお腹を愛おしそうにさすって出ていった。私も温かい気持ちになりながら手を振る。見送った後は、今夜和人が帰ってくる時に、少しでも疲れを癒せるように迎える準備をしなくちゃ。

さぁて、残りの家事も済ませちゃおう。
そうしたら、今日はスーパーへ行こうかな。
明日からは冷たいコーヒーじゃなくて、温かいココアでも淹れようかな。せっかくの秋だし、和人の好きな梨も買ってこよう。お腹が動く感覚がする。この子も大好物かもしれないな、と笑った。

10/1/2025, 5:13:19 AM

【旅は続く】

目の前に広がる大きな海を見ながら、缶コーヒーを飲む。ついさっき貰ったものだから、まだ仄かに温かい。

9月の昼間はまだ夏のように暑いが、暗くなれば肌寒い。一晩中原付を走らせ、冷たくなった体に缶コーヒーの温かさが沁みた。

大学生2年生、小さな頃から密かに憧れていた一人旅をしてみようと思い立った。けれど、日本一周など大それたことはできそうになかった僕は、まずは手始めに県内一周からスタートした。ちっぽけだけど、僕にとっては大冒険、大旅行だ。



原付での旅に憧れたきっかけは、中学1年生の時、塾に行く前に立ち寄ったコンビニで会った大学生。彼の横にある、妙に細いバイクみたいなものが気になった。

「それ、なんてバイクなの?」
僕の友達の橋本が声をかけた。

「ううん、これは原付。原動機付自転車って言うんだよ」
お兄さんは優しく僕らに教えてくれた。
「へー。変な自転車ぁ」
「ちょ、橋本!変とか言うなよ!」
正直者な橋本と慌てる僕を見て、お兄さんは可笑しそうに笑った。

お兄さんはこの原付で日本一周をしていると言った。小さい頃はあまり外に出れなかったから、色んな景色を見たくて旅をしているんだと教えてくれた。

「ゆくゆくは世界一周とかもしてみたいなぁ」と言うお兄さんを見て、憧れると同時に、すごいなぁ、僕にはそんな度胸ないや、と思ったのを覚えている。



県内一周旅行は、想像以上のものだった。

でこぼこした道路を走る振動でお尻は痛いし、ずっとハンドルを握っているので肩もこる。
僕の真横スレスレをトラックが走ったりするものだから恐ろしくて、心臓にも悪い。
昼間は太陽に照らされて汗だくだし、暗くなれば冷たい風が吹いて寒い。

だけど——。

時速30kmでトコトコと進む原付は、景色を見るのに最適なスピードだった。
初めて見る景色。ずっと住んでた地元でも知らない店や道がある。名前だけ知っていた隣町や市には、素敵な場所や美味しいものがある。普段、人と町ですれ違うときは挨拶すらもしないのに、ふとしたときに気遣い、声をかけてくれる。
僕にとって旅は、初めて見ることや知ることばかりで、想像以上に心動かされるものだった。



「兄ちゃん、旅行かい?」
朝方、堤防に寄りかかって海を眺めていると、散歩中らしいおじさんから声をかけられた。

「はい。規模は小さいですけど、県内一周をしてみようと思って」
「いいねぇ。規模なんて関係ねぇよ。旅なんてな、その場所で何を感じたのかが大事なんだ」
「ありがとうございます。初めて知ることばかりで感動の日々です。正直、ちっぽけな旅だと舐めてました」
恥ずかしそうに僕が言うと、おじさんは豪快に笑ってくれた。

「はは、沢山色んな経験をするといい。人生は旅みたいなもんだからなぁ」
おじさんはそう言うと、自販機で買ったばかりの缶コーヒーを僕に手渡して、去っていった。

人生は旅。確かにそうかもしれない。
産まれて初めて目を開けたときの世界の色。
初めて飲んだコーヒーの苦さ。
初めて自転車に乗れた時の達成感。
今では当たり前のことも全て、初めは知らないことばかりだったんだ。

海から朝日が昇ってくる。
何か大きなことを成し遂げたわけではないけれど。
まだちっぽけな旅、終わってすらいないけれど。

僕の旅は続く。
これから先も色んなことを経験していこう。
なんだかすごく晴れやかで、心地よい気分だ。

9/29/2025, 1:52:08 PM

【モノクロ】


『こんにちは。
いつもテレビで見て元気をもらっています。

先日拝見した「卒業」のネタ、すごく面白かったです。特に中盤の迫真な表情、シュールで笑いました。
以前見た時よりもすごく面白くなっていて、
温かい気持ちになりました。

出会えてよかったです。
おかげで笑いが絶えない毎日です。
沢山笑わせてくださり、ありがとうございます。』



文字を書く手に力が入らなくなったので、
一度ペンを置く。

テレビではお昼の情報番組が放送されていて、そこにゲストとして若手芸人が出ている。ネタがとても面白くて、賞レースやバラエティ番組にもよく出ている、とても人気な芸人らしい。
僕が書いているのは、この人に宛てたファンレターだ。手紙なんて初めて書くので、何て書いたらいいのか分からず、何度も何度も書き直す羽目になっている。

実は、この人がやるネタを僕はこの世界の誰よりも早く、1番に見たことがある。

僕は人生の多くの時間を病院という、まるで白色だけで構成されたような、モノクロで単調な空間で過ごしてきた。
僕は余命のある病気だった。
両親や病院の人にはすごく感謝している。どうにか良くなるように、と沢山手を施してくれた。ありがたかったし、その気持ちが嬉しかった。
僕だって何とか元気になっていつかお礼をできたらな、なんて思っていた。けれど、どこかで諦める自分もいた。窓の外に見える、楽しそうで色鮮やかな世界。僕はあの窓の向こうには、到底行くことができないんだろうな、と不貞腐れたりもした。

だけど、そんな単調な日々を過ごしていた僕を、君がたくさん笑わせて色付けてくれた。



骨折して少しの間だけ入院することになった君とは、病院の談話室で出会った。歳の近い子たちで集まって度々談話室ではレクリエーションが行われる。

「行きたくないよ、レクリエーションなんて」
「そんなこと言わずに。見るだけでも面白いと思うよ」
気分が乗らない僕を看護師さんが連れ出してくれた。

「ばああ!」
レクリエーションの中で、誰よりもふざけて、大声をだして、目立っていたのが君だった。君はつまらなそうに端の方に座る僕に目をつけ、何度も何度もふざけた。何度も何度もギャグを見せてきた。
面倒臭い奴に絡まれたなと、僕はため息をついた。それでも君はふざけ続けた。

「ばああ!」
君は何度も可笑しな仕草をしながら、僕の目の前に立ち塞がる。
そのうち僕も意固地になって、絶対に笑うもんかと口のへの字に曲げる。そっぽを向いたりもした。けれど、視界の端に映る君が負けじと変顔をしてくるものだから、つい絶えきれずに笑ってしまった。
君は嬉しそうだった。

それからは君は僕の病室をたびたび訪れては沢山笑わせてくれた。初めての友達だった。
君がくると白色一色だけだと思っていた部屋が、いろんな色でできていることを知った。君が笑うと、両親が飾ってくれた花が色鮮やかに映った。君と笑うと、部屋中の白は病に侵された僕を冷ややかに笑っているのではなく、温かく優しく僕らを包んでくれているように思えた。

骨折が治ると君は退院していったけれど、その後も稀にお見舞いに来てくれたりして、交友は細々と続いた。
君が高校を卒業する年、僕に見せたいものがあると言って、部屋を訪れたことがあった。

そこで、君が芸人を志していて、上京することを知った。

「会えなくなるのは正直寂しくなるな。昔からおもろかったもんな。向いてると思うよ、芸人」
僕が言うと、君は照れくさそうに笑う。

「早く売れていっぱい活躍するから。そこのテレビでも見れれば寂しくないやろ」
「うん。テレビよく見とくわ。治ったら、元気になったら、絶対劇場にも行くな」
君は大きく頷くと、そろそろ帰ると席を立った。

「なぁ、東京行く前にネタ見せてよ」
「えー!まだ考えたばっかりなんだけどなぁ」
僕がわがままを言うと、恥ずかしそうにしながら君はネタを見せてくれた。



先日、気まぐれでつけた番組で、君が映って驚いた。
あの時のネタが、あの日見たときよりも何倍も面白くなっていて感動した。もっと色んな君のネタを見たいと思えた。僕は生きたいと思えた。諦めたくないと思えた。

明日僕は手術をする。上手くいって、もしも体調が良くなったら、そのときは——。

これから沢山の人に笑顔を届ける君へ。

一度置いたペンを持ち直す。
震える手で文字を綴る。書き損じが何枚もある。
何回だって書き直そう。君に伝えたい気持ちが沢山ある。

ただでさえ忙しい君が毎日届く手紙を、1通1通読んでくれるかは分からないけれど。忙しい君の目に、とまりますように。君がもし僕の手紙を拾い上げてくれた時、なんて書いてあるのか、なんて君に余計な苦労をかけないように。

深呼吸をして、ゆっくりゆっくり文字を書く。

『最後になりますが、今後ともお身体に気をつけて。
いつまでも応援しています。』

白い便箋に黒いペン。モノクロで味気のない手紙。
本当は色ペンを使ってカラフルにしたかったけれど。
ところどころ掠れたり、ミミズのような文字だけど。

これが、僕が君に送る最初のファンレターです。